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原爆を描いたもっとも古い漫画

原爆漫画といえば、何といっても中沢啓治さんの「はだしのゲン」が
有名ですが、それより16年も前に原爆をテーマに描かれた漫画をこの
ほど広島平和記念資料館(原爆資料館)が掘り起こしたと、4日の朝
日新聞夕刊が伝えています。

その漫画は 広島県安村(現・広島市安佐南区)出身の谷川一彦さん
(1936~2008)作の「星はみている」。谷川さんは原爆投下の日、爆
心地から10キロ近く離れた自宅で、「黒い雨」を目撃、市内中心部に
出勤していた父親は行方不明になりました。

この作品は6日から31日まで、原爆資料館で展示されます。

投下12年後の原爆漫画、広島平和記念資料館が『発掘』」

戦争と年賀状

ご家族お揃いで、楽しいお正月を迎えられたことでしょう。また今年
も多くの年賀状を受け取られたことでしょう。

さて戦争中も、年賀状のやり取りはあったのでしょうか? 

明治終わりから昭和初期にかけ、年賀状の取扱量はしだいに増え続け、
1935年頃には7億通を超しピークを迎えます。しかし戦争による紙不
足の影響で、日中戦争突入の1937年頃から急激に減りはじめ、1940年
には年賀郵便の特別取扱も「当面の間」中止ということになりました。

太平洋戦争突入以降はさらに自粛ムードが高まり、1943年ごろには逓
信省が「お互に年賀状はよしませう」と自粛を呼びかけるポスターを
掲げます。そして終戦の年、1945年の正月には、ほとんどやり取りは
なくなっていました。お上のお達しがなくとも年賀状どころではない
社会情勢でした。

最近はインターネットの普及などで年賀状も漸減傾向だそうですが、
それでも2010年の年賀葉書の発行枚数は約39億枚。まさに平和あって
の年賀状といえましょう。

年賀状博物館

ビアク島、米軍上陸前の資料発見

太平洋戦争の激戦地の一つビアク島の上陸(1944年)直前に米軍が作
成した偵察資料がアメリカで発見されたと、30日の産経ニュースが伝
えています。
「『ビアク島』米軍上陸前の資料発見、地獄のニューギニア戦線

ビアク島ではニューギニア戦線で最大の激戦が展開され、日本軍約
13000名のうち生還者は僅か520名でした。その生還者の一人である元
兵士の体験記をご紹介します。
ビアク島からの生還

NHK「「飢餓の島 味方同士の戦場」を観て

26日に放送されましたNHKテレビ「証言記録 兵士たちの戦争」の
「飢餓の島 味方同士の戦場 ~金沢歩兵第107連隊~」を観ました。
南太平洋マーシャル諸島の環礁“ミレー島”での物語です。

この島には、陸軍と海軍合わせて5700人が駐屯していましたが、その
内3100人が死亡しました。その大半は、敵との戦闘によるものでなく、
飢餓によるものでした。

「あんなもん、戦争じゃない。島流しや」という元兵士の証言に表さ
れるように、この島は日米両軍の作戦によって、米軍の進攻からも取
り残され孤島となりました。そして2年近く補給が途絶えます。

やがて食糧難から、しだいに陸軍と海軍の対立が生じ、食糧争奪をめ
ぐって銃の打ち合いにまでなります。部隊内でも、食べ物の恨みから
部下が小隊長を殺すなどの事件が発生し、ついには死んだ戦友の肉ま
で食べるまでになりました。

次の元兵士の証言が、ミレー島での戦争を如実に物語っています。

「泥棒の寄せ集まりや。日本の兵隊と味方同士の戦争やった」
「あんなもん、戦争やない。餓鬼道地獄やった」

今、平和を語る:作家・林京子さん

毎日新聞大阪版夕刊に毎月連載中の「今、平和を語る」、今月は作家
の林京子さん(79)が登場し、自らの長崎での被爆体験とその後の原
爆症の恐ろしさを語っています。

今、平和を語る:作家・林京子さん

NHK「零戦~栄光と悲劇の航跡~」を観て

去る20日にNHK・BSハイビジョンで放送されました「零戦~栄光
と悲劇の航跡~」を、遅ればせながら録画で観ました。

まず驚いたのは、もう80代、90代になる零戦の元飛行士と、彼らと戦
った米軍の元飛行士のお元気なことです。そしてその人たちを捜し出
してくるNHKの取材力にも、いつもながら感心させられます。

何しろ実際に零戦で戦い、また零戦と戦った日米双方のパイロットた
ちが生の声で語るのですから、零戦に関するいかなる解説よりも迫真
力がありました。

太平洋戦争開戦時には、零戦は確かに米軍の戦闘機より性能が優れて
いました。米軍の飛行士たちは、零戦とは一騎打ちはするな、まず逃
げろと指示されていました。

しかしその後米軍は、捕獲した零戦を組み立てて研究するなどして、
しだいにその性能を上回る戦闘機を開発し始め、彼我の性能は逆転し
始めます。当初は零戦を見ると逃げていた米軍機も、逆にカモとばか
りに襲い掛かるようになります。

零戦は機体を軽くするため、防御能力を犠牲にしていました。その分
精神力で戦えと飛行士たちは教え込まれていました。しかし大和魂だ
けでは弾丸を防げず、優秀なパイロットがどんどん斃されていきます。

最後には零戦は特攻機となり、重い爆弾を抱え、片道燃料で出撃して
いきます。しかし軽い機体が災いしてうまく敵艦に命中できないまま、
多くが海底の藻屑と消えていきました。

零戦の歴史はまさに太平洋戦争の歴史そのものであり、帝国海軍の栄
光と破滅を象徴するものでした。

京都の空襲

京都には多くの文化遺産があるから戦災を免れたという「都市伝説」
がありますが、実は京都にも小規模ながら米軍の空襲はありました。

毎日新聞大阪版のシリーズ「平和をたずねて」は、11月17日から5回
にわたって「京都空襲 古都が震えた日」を連載し、余り知られてい
ない京都の空襲の実態を紹介しています。

京都になぜ単機だけによる小規模な空襲が行われたのか? それは原
爆投下のテストだった。それではなぜ原爆が投下されなかったのか?
それは文化財を守るためではなく、冷徹な政治判断がなされたからだ
った、というのが記者の推理です。

下記のサイトに5回の連載記事へのリンクがありますので、お読みく
ださい。
平和をたずねて アーカイブ

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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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