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戦時中の食生活(7)

引き続き、「暮らしの手帖 96号 特集・戦時中の暮らしの記録」
(1968年8月)から転載します。

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かぼちゃの葉 幼なかった私は、三個の小さいカタパンを、コップ一杯の水でとか
してもらい、妹と奪いあいながらチビリチビリ飲んだ。まだカタバン
が溶けないうぢに飲もうとしては、母から叱られた。とにかく飢えて
いた。

ある日、私は道端で種子を拾った。それがカボチャの種とわかった
時は、小踊りして喜んだ。

猿蟹合戦ではないが、この種をまいて育てよう、そんな気長なこと
を本気で考えた。母と力を合わせ、玄関の僅かな余地に、リンゴ箱を
置いた。幾度と襲う警戒警報のあの唸るようなサイレンを縫って、ア
スファルトの上に転がっている馬糞や牛糞、それにわずかに吹きたま
った埃泥を根気よく拾い集め、新聞を焼いた灰を水でぬらしてしっか
り固め、その中に種をまいた。

ところが親子の執念が通じたのか、小さい双葉を出し、水以外の肥
料も入れないまま、大きく育ち出したのである。私たちは、くる日も
くる日も敵の飛行機に見舞われ、恐怖で生きた心地はしなかったが、
それでも、葉を大きく広げた緑が目に入ると、それが唯一の生き甲斐
であるかのように心が支えられた。

そのうち花が咲いた。小さい実をつけた花には、おしべの花粉を丁
寧につけてやった。ひとつ、ふたつ……小さい豆つぶも入れると六個
もの実がなっている。毎日大きくなるのを、なめるようにさわっては
楽しんだ。―カボチャが食べられる―。それは想像もつかない喜びだ
ったのである。

やがて花は落ち、カボチャは水だけを吸って、こぶし大の実を地に
つけた。

ところが、ある朝、無残にも若い実が二つ、もぎ取られていた。私
は泣いた。食べられないからではない。同じこの苦しい世相の空の下
にいながら、同類の気持を踏みにじられたのが悲しかった。母になぐ
さめられ、父の提案で、トゲのある針金で周囲をかこう。

やがて近隣は爆撃され、ぞくぞくと焼死者が出た。水を求めてあえぐ
焼けただれた人の中を縫って、私たちも布団をぬらして頭からかぶり、
逃げまどった。不思議に生きのびて家に戻ると、家も、それにカボチ
ャも、生きていてくれた。しかし食物はこのカボチャの木一本以外何
もないのだ。被災者や負傷者が家の中に入り込んでいる。母はカボチ
ャを小さく切って汁気の多い塩汁にしてつぎわたした。そしてその実
もなくなった日、その葉をみじんに切って煮た。少し舌を刺したけれ
ど、それでもみんなの腹は満たされた。

その葉も僅かになった頃、今度は残された茎も小さくきざんで汁と
一緒に煮た。結局残ったのはカボチャのかたい本体の茎一本だけで、
あとは全て体に入って命をつないでくれたわけである。
( 岩森道子 北九州市 )
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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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