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戦時中の食生活(6)

引き続き、「暮らしの手帖 96号 特集・戦時中の暮らしの記録」
(1968年8月)から転載します。

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(6)ジャガ芋

昭和十九年の秋。

その日、町内の防火用水槽の上に、ひさしぶりに鯖が二尾、大根が
四本、大箱マッチが一箱おいてあった。そのまわりを取りかこんで、
隣組十七軒の主婦たちが騒いでいる。

魚の切身やマッチの軸木の配給を、目分量でわけるのは不公平だ、
ともめているのであった。

その時、最年長の佐賀県出身の奥さんが
「今日から、小さかもん分けるとき、これば使うて計りまっしよっ」
と、ボール紙を丸く切り、四箇所に丈夫な糸を通し、菜箸に丹念に目
盛りを切りこんで竿を作り、おもりには、ミシン糸の糸巻をくくりつ
けた小さい手製の竿秤を出された。それ以来魚の切り身やマッチの軸
木をわけるのに、どこからも苦情が出ないようになった。

豆腐やオカラは、隣組配給ではなかった。近くの八百屋へ豆腐屋が
卸し、それを小売りするようになっていたらしいが、交換物を持たな
い私は、一度もその八百屋で、豆腐もオカラも売ってもらったことは
なかった。いつ行っても「売り切れました」というだけで、ふりむい
てももらえなかった。

千田町で知人が豆腐製造をやっていることを知り、訪ねてみると、
長い行列がその豆腐屋を取り巻いていた。自由販売のオカラを手に入
れようとする行列であった。私も長い時間をかけて、一かたまりのオ
カラを手に人れた。

その日の夕食には、そのオカラに小麦粉を少しつなぎに入れ、塩を
ふりこんでフライパンにならべ、家族そろって七輸をかこんで、オカ
ラまんじゅうを焼きながら食べた。子供たちは、ひさしぶりに満腹し
たのか、機嫌よく、はしゃいでいた。

それからは、足しげく、その豆腐屋へ通った。そのたびに、タンス
から木綿の着物が姿を消した。

江田島の年老いた両親が、ジャガ芋をリンゴ箱に一ぱい送ってくれ
た。大きなジャガ芋を箱に詰めれば、ところどころに隙ができる。そ
の隙間には、小さいジャガ芋が、ぎっしり詰めこんであった。

そのジャガ芋を、昼食に独りで煮て食べたことがある。

たった一つ煮たのであった。 ( 二つ食べれぼ腹一ぱいになるのだ
が、二つも独りで食べたりしては、罰が当るだろう。一つにしておこ
う。ええい二つ食べてやれえ。いや、やっぱり一つにしておこう )
一つのジャガ芋を、箱から出したり、入れたりした。

ある日曜日、夫は大工道具と木片を出して、ことこと音をたててい
た。出来上った物は、小さい弁当箱であった。

「勤め先で弁当箱を開くと、中身が箱の三分の一ほどに片寄って、三
分の二くらいは空いている。だから、その三分の一の弁当箱を作った
のだ。明日からは、これに一ぱい詰めてくれ」

夫は小さい箱を私に手渡した。

酒の配給が時折あった。月に三合くらい割当てられるのでは、かえ
って酒気に誘われるらしく、夫はビールの立飲みに、ビヤホールヘ通
うようになった。延延とつづく行列に加わって、三度に一度は順番が
きて、ビールが飲めたようであった。

防空訓練を終えて帰る途中、私の肩を後から軽くたたく者があった。
近くに住んでいる私の従姉妹であった。従姉妹は私の掌に親指大の紙
包みをそっと握らせて、なんにもいわずに行きすぎた。その小さな紙
包みには、厚さ五ミリ、幅二センチ、長さ六センチくらいの蛸の切り
身が二枚入っていた。

その蛸をさかなに、配給酒の晩酌を終えた夫は「今晩は思わぬ大散
財にあづかった」と上機嫌であった。

穀類の配給は、大豆や大豆粕、コウリャンなどで、米麦はめったに
なかった。

妙大豆に菜っ葉汁の食事が続くせいか、次男は、胃腸を痛めて、医
者通いをしていた。

その次男に、陸軍幼年学校へ合格の通知がきた。この日を、どんな
に待ったことか。待望の知らせであった。

この日から、次男の体は、よりいっそう大切な体になった。米のお
粥でも食べさせて、早く元気な体にしてやらなければ。小さいながら
も国に捧げる体である。

その日のうちに私は、長男を連れて、田舎へ米や野菜の買出しに行
った。長男のリュックサックには芋と大根、私のリュックには、底の
方に米をたいらに入れ、その上に白菜をならべて、全部を野菜に見せ
かけて帰路についた。船着場に船が着いた。そこに三四人の警官の姿
が見えた。

私と長男は、人ごみに逃げこんだ。

やがて重い足を引きづって我が家に帰った。

私のリュックサックからは、しなびた白菜だけが三株、ごろりと転
がり出た。米は一粒残らず警官に没収されたのである。
(小久保 よう子 広島市)

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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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