スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

戦時中の食生活(5)

引き続き、「暮らしの手帖 96号 特集・戦時中の暮らしの記録」
(1968年8月)から転載します。今回は勤め人の昼食の話です。

皆さんのご感想や同じような体験記をお寄せください。

--------------------------------------------------------------
(5)雑炊食堂

十九年頃から、大半の勤め人や外出者は、昼めしに苦労しはじめた。

労務加配米のある会杜食堂で食事のとれる者、弁当持参組…… と
いっても弁当箱に八分目の麦飯に、きりぼし大根のお菜組、じゃが芋
に食塩組、さつま芋組、メリケソ粉ととうもろこし粉で作った手製の
パンに家庭菜園の野菜煮、といったさびしい弁当持参組なのだが、
(まれには白米弁当をこっそり食べる者もいた ) それらを別にして、
多くの勤め人は、今日も何とかカロリーのある昼飯にありつきたいも
のだと、正午も待ち遠しいように街に出る。

どこもすぐ売切れで、食べそこなってしまうからである。もともと
一日の米の配給量は二食分しかなかったのだから、外で一食にありつ
ければ、それだげ米のくい延ばしになるわけである。

僕のいた西銀座の会杜の近辺でも、昼めしを出す店が、まだ二、三
軒残っていた。

大通りの不二屋やオリンピックでは、もう食事の出来ぬころであっ
た。

一軒は、元郵船のコック長までやったという五十がらみの小柄なお
やじさんのやっている店で、なんとか手持ち材料で、我々に少しでも
満足のゆける料理をと、それこそあぶら汗を流しながら、このおやじ
さんは懸命にフライパンをひっくり返すのであったが、我々の食べた
ものは、やし油か、機械油であげた鯨肉か、あいなめ、ほっけのフラ
イに、主食がわりの、芋の粉か大豆かすで丸めただんご、マカロニよ
りも太い暗かっ色のひじきのつけ合せといった、しぼらく口の中が油
くさく、もたつくようなものであった。それでも、我々は毎日のよう
に通った。

しかし間もなく、おやじさんに徴用がかかり、閉店してしまった。

もう一軒は、もと喫茶店であったのが、材料不足で止め、客から米
をあずかって、その米で昼飯を出す店であった。多少の融通はやって
くれるとかで、あちこちから、米を持参する客は多かった。

といっても、出してくれる料理は、殆んど毎日のように、冷凍ほっ
けか、冷凍たらの揚げものに、葉のついたさんごに似た太い暗緑色の
海草類のつけ合せ、その上、当時の冷凍もの特有のプーソと強烈なア
ンモニアの臭気をいやでもかがせられる料理であった。

それでも一寸時間を遅らせると、売切れになった。しかしここもま
た、間もなく材料入手難で閉店。

つぎが、京橋際のおでん屋跡の雑炊食堂。工面した外食券を持ち、
どんぶり一ぱいの雑炊にありつくため、長い行列をつくった。

大きな鍋から、丼八分目につけてくれる雑炊は、ほんのちょっぴり
の米に、大根の葉や、芋のつる、皮のままのじゃが芋のかげらなぞを、
しじみかたにしのむきみをだしに、代用しょう油で煮こんだ、するす
ると吸えるようなものであったが、結構誰もうまそうに、やれやれ今
日も昼めしにありつけたと、お代わり欲しさにまた行列の後に並び、
たちまち売切れに、うらめしそうな顔をする者もあった。

こうして毎日、どうやら昼の空腹をしのぎながらも、当時もう一、
二合の配給酒しか得られなかったわれわれにとって、ビヤホールが曲
りなりにも開いていた中は、夕方はなによりの楽しみであった。

といってジョッキを並べ、チーズ、焼肉をっっいて談論風発なんて
にぎやかなものではなかった。

週一、二回、それもだんだん回数は減つていったが―ビヤホールが
開けるという情報が伝わると、丸の内、銀座、築地、八方からかけつ
ける、勤人、職人、店主たちで、京橋のエビスビヤホール、ユニオン
ビヤホールは、長蛇の列であった。

一枚の券で一ぱいのジョツキ、うまく先頭に並べたものが、券を手
にするや、眼の色変えて後尾の列にかけこみ、売り切れ前に二はい目
を手にして笑う得意気な姿。

まだなにがしかのつまみがある中はよかった。秋から冬に入った頃
は、もうそんなものはなく、北風の吹きこむ、ガランとしたユニオン
ホールの階段を、珠数つなぎになって、歩一歩上りながら、やっと手
にした氷のようなビールを、七、八人で円卓をかこんで立飲みする姿
は、外目には何とも殺風景なものに違いなかった。

しかしこの最後の二店も、いつの間にか、どこかの下請工場になっ
てしまった。

もう酒をのみたければ、灯火管制した薄暗い廃業ののみ屋の裏口から、
こっそり入り、あたりをうかがうようにして運んで来るおかみとひそ
ひそ声で闇酒をのむより外なく、昼めしにあずかろうとすれば、当時
いとも簡単に莫大な手附金を国策会杜の重役から受けとってくる機械、
工具ブローカーのお供して、彼の持ちこみの鶏やまぐろ肉を、彼のな
じみの廃業小料理屋の奥座敷で食わせてもらうより外なかった。
( 柏木七洋 東京都 )


スポンサーサイト

トラックバック

http://nishiha.blog43.fc2.com/tb.php/966-2dae937d
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

«  | HOME |  »

最近の記事

カテゴリー

カレンダー

06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

月別アーカイブ

最近のトラックバック

ブログ内検索

リンク

このブログをリンクに追加する

「戦争を語り継ごうML」ご案内

このブログの記事は、主としてメーリングリスト「戦争を語り継ごうML」へ投稿したものです。このメーリングリストは、世代間の交流を通じて戦争を正しく語り継いでいく場として、設けたもので、10代から90代まで、多数の人が参加しています。

参加を希望される方は、上の「リンク」の「戦争を語り継ごうML」をクリックしてください。

コメントをどうぞ

このブログについてのコメントは、下記へお寄せください。

名前:
メール:
件名:
本文:

プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。