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従軍記者が見聞した南京事件(6)

南京入城式の翌日、1937年12月18日発行の東京朝日タ刊 ( 紙面上
は19日付 ) は、軍の発表をうけてこう報じた。
「南京攻略にあたり敵の遺棄せる死体は八、九万を下らず捕虜数千を
算す」

歴史学を研究する洞富雄は当時、この記事を読んで「慄然」とした
( 『近代戦史の謎』 ) 。

直前に朝日は「江岸で一万五千捕虜」 (16日付)、「なほ潜伏二万
五千敗残兵狩り続く」 ( 同 ) などと報じていた。

なのになぜ捕虜が「数千」なのか。洞は、大規模な捕虜殺害を紙面
から「直覚」した。

南京で何が起きたか。新聞は、事実をそのまま書くことはできなか
った。しかし、その一端は、当時の紙面にも刻印されている。

例えば、38年1月13日付朝日尾張版の記事「敵屍をご馳走に南京の
お正月」は言う。
「南京城内外や揚子江付近は敵屍数万、一目で約五、六百の屍体の山
が何ケ所かある。…… 戦争敗けてはいけませんね、日本に生れた我
々は幸福だと思ひます」

1月20日付千葉版にも「南京城の北方で……(揚子江を)渡河中の
敵を射撃し敵二百名以上を殺し、隊長から“お前は殊勲甲である”と
賞められて面目をほどこした」との記事がある。

もっとも「日本の将校がシナ人の首をいくつ切ろうが……無関心」
( 安岡章太郎『僕の昭和史』 ) というのが大方の読者だったかもし
れない。

「南京」は一方で「うわさ」としてひそかに語り伝えられた。
「我軍は支那兵約二万を捕虜としたるが之を全部機関銃にて射殺し死
体は揚子江に流したる旨」
「揚子江岸にて捕虜一万二千名に対し食糧を供給すること能はずして
鏖殺(おうさつ)したる由」

国内でそう話した2人の民問人が38年、それぞれ陸軍刑法違反で有
罪判決を受けている(西ケ谷徹『支那事変に関する造言飛語に就て』)。

日中戦争開始の37年7月から2年間に、憲兵が察知した軍人・軍属
6452人の要注意通信、言動、手記などを分析したデータがある。

「掠奪強姦は自由」「捕虜は列べて試斬りとし又は機関銃にて射殺す」
など「皇軍将兵の掠奪強姦良民虐殺」に関するものが418件。「死体
散乱し惨状目を覆ふ」など戦争の悲惨を言うものが288件にのぼった
( 大本営陸軍部研究班「支那事変ヨリ観察セル我ガ軍人軍属ノ思想状
況」『日本軍思想・検閲関係資料』 ) 。

華々しき戦勝の報書く記者もおびただしかる屍を見む ( 松本基次、
38年刊『支那事変歌集戦地篇』から )

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西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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