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従軍記者が見聞した南京事件(4)

陥落の翌日、南京城の内外で「残敵掃討」が行われた。その近くに
記者たちがいた。

この日、南京の目抜き通りにいた朝日記者中村正吾のそぱに、米国
旗をつけた車が止まった。

2人が降りてきた。南京で取材を続けていたニューヨーク・タイム
ズ記者ダーディンと、パラマウント映画ニュースのカメラマン、メン
ケンだった。南京の最後のようすを中村が尋ねると、「いやどうも恐
ろしかったね」という答えがかえってきた (16日付朝日 ) 。

ダーディンは15日、船で南京を離れる。そして、その目で見た光景
を米国へ書き送った。
「 ( 揚子江岸の下関で ) 乗船する間際に、記者はバンド ( 埠頭 )
で二〇〇人の男性が処刑されるのを目撃した。……日本兵は、ぐでぐ
でになった死体の上を無頓着に踏みつけて、ひくひくと動くものがあ
れば弾を打ち込んだ」 (18日付ニューヨーク・タイムズ『南京事件資
料集1』
) 。

米紙は「南京」を大々的に報じた。これを読んだ朝日のニューヨー
ク特派員森恭三は、日本へ「詳細に打電し」た。しかし、「一行も」
載らなかった ( 『私の朝日新聞杜史』 ) 。

森は39年、第2次大戦の取材で英国に出張した際、東京から来た中
村と会った。

中村は南京での体験を語った。
朝日の支局で働いていた中国人の「ポーイ」が日本軍に捕らわれた。
駆けつけて救出した。日本の軍人は自分を失い、殺害される方が落ち
着いていた。「日本人を廃業したい」「戦争は負けだよ」と中村は森
に言った ( 『回想中村正吾』 ) 。

朝日記者の今井正剛は37年12月15日夜、「数百人、数千人の足おと」
がひたひたと通りをいくのを耳にする。中村正吾と一緒にあとを追っ
た。

下関の桟橋に出た。
「少年から老年にいたる男たちが、小銃の射殺だけでは始末がつかな
くて、東西両方からの機銃掃射の雨を浴びて」いた ( 『特集文芸春
秋』56年12月号 ) 。

その日、朝日の杜説は、「抗日の首都」攻略を祝して、こう述べて
いた。
「皇軍の威武は……陥落の完全なる戦果を収め、古城新営の地区到る
ところに殆ど残敵をとどめず、凱歌は高く日章旗と共に揚つた」

現実には、南京は「残敵掃討」のさなかにあった。

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プロフィール

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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