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従軍記者が見聞した南京事件(2)

柳川平助中将が率いる兵団 ( 第10軍 ) に従軍した斎藤は1937年11月
20日、太湖南岸の湖州に入り、南京へと向かった。

斎藤よりやや遅れて、柳川兵団の法務部長、小川関治郎らの一行が
29日、湖州に着いた。

小川らの陣中日誌に、軍法会議にかかった事件が記録されている
( 『続・現代史資料6』 ) 。

―被告人は泥酔して「支那人二対スル強キ敵愾心(てきがいしん)二
駆ラレ……所携ノ銃剣ヲ以テ通行中ノ支那人三名ヲ殺害シタルモノナ
リ」。

―徴発した野菜を中国婦人3人に洗わせようとしたところ、ひとりが
応じようとしなかったため「被告人ハ……日本軍人ヲ軽侮スルモノナ
リトシ所携ノ歩兵銃ヲ以テ同女ヲ射殺シタリ」。

頻発する略奪、殺人、強姦。憲兵は「僅かに現行犯で目に余る者を
取押える程度」だった ( 上砂勝七『憲兵三十一年』 ) 。

「柳川兵団の進撃が速いのは、将兵のあいだに『掠奪・強姦勝手放題』
という暗黙の諒解があるからだ」と、同盟通信上海支杜長の松本重治
は同僚から聞いた。

斎藤は、中国側が日本軍に向けて流したラジオ放送の言葉を、手記
に書きとめている。
「父母にはぐれた数千の孤児、わが子の死体を踏み越えて逃げる年と
った父や母達。家は焼け、喰ふに物なき哀れな民の、あの悲しみの洪
水が果して、みなさまの心にどの様に映ってゐるでせうか」

1937年12月13日の夜明け前、日本軍が南京城東側の中山門を占領し
た。

明け方、朝日新聞記者斎藤一は、南京城の南側、中華門西方50メー
トルの城壁を爆破してつくられた突撃路をよじ登って城壁の上に立っ
た。
「敵の死体が城壁の外側に何百、何千、数へ切れぬ程列をなしてゴロ
ゴロと転がつて」いた (38年1月5日付朝日北海樺太版など ) 。

城内に入った日本軍は「残敵掃討」にあたった。歩兵第20連隊の牧
原信夫上等兵は、新聞記者が「続々嬉しそうに自動車或は徒歩にて入
城」するのを見た ( 『南京戦史資料集1』 ) 。
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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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