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戦争と沢村栄治

戦前のプロ野球で巨人のエースとして活躍し、不世出の大投
手といわれた沢村栄治もまた戦争の犠牲者でした。

「沢村栄治発言集」から、彼の戦争に関する発言のみ抜粋し
ます。

昭和12年(1937)3月:出征を前にしてチームメートに
「優勝してくれ!是非優勝してくれ!」

昭和12年(1937)9月:司令官の質問に対して
「ハッ。投手は重い銃をかついだら肩を悪くすると思います」

昭和12年(1937)9月:司令官の質問に対して
「(希望の兵科は)べつにありません」

昭和13年(1937):『野球界』に寄せた手記
「曹長が『沢村、手りゅう弾一発かましてみい』と言う。無論立っ
てなんか投げられない。だが野球で鍛えた腕には、伏していても投げ
られる自信があった。死を覚悟した自分は、安全装置を取り、靴で発
火させて投げた。すさまじい爆音が敵陣にあがった。手応えがあった
なと思った。曹長が太い声で『手りゅう弾』と叫ぶと、辺りの戦友た
ちから、オレも我もと手りゅう弾を送ってきた。自分はありったけの
手りゅう弾を次から次へと投げた」

昭和13年(1938)4月:戦場で負傷して
「左手でよかった。早く球が投げたい」

昭和13年(1938)5月:負傷に関する新聞への談話
「ひどい山で次々に山が重なっているのを突撃して行きましたが、
二十三日夕刻、自分が名付けた鉢巻山の頂上で猛烈な敵の斉射を受け
ました。避けるところもない岩山で友軍の砲撃に折れて倒れた大木が
あったからそれを楯に軽機を備えて応射していると、その大木を敵の
銃弾がブスリブスリと飛び越えて来るのでこれは危ないと思った瞬間
やられたのです。冷たいというのか熱いと言うのか、得体の知れない
感じでしたが、そのときすぐこれなら働けると思いました。右手なら
これから投げられませんからね(以下略)」

昭和15年(1940):戦地から帰還して
「芝生の上に立って白いボールを握ったときのうれしさは、死線を
乗り越えてきた者だけにしか味わえない…」

昭和15年(1940)6月頃:『野球界』のインタビュー
「兵隊に行く前は十八貫六百だった体重が、帰ってきた当座はなん
と十九貫五百にもなっていたのに、その後一ヶ月ぐらいの間に十七貫
八百になってしまいました。当分休養してればよかったのでしょうが、
グラウンドに出てみると球をにぎってみたくて仕様がありませんし、
投げてみたい気持ちをどうすることも出来ずに練習しました。それで
やせたのでしょう。(中略)だが戦地では野球のことを考える余裕はあ
りませんでした。第一線に専心しなければなりませんでしたから(略)」

昭和15年(1940):『モダン日本』の手記
「戦線から帰還後の最近ではしばしば眠られない夜がある。軍隊に
入る前にはゴロッと横になるとすぐさま熟睡に落ちてしまう他愛のな
いものであったが、殊に近頃のような暑い夜になるとなかなか寝つか
れない。恐らく戦争でいら立った神経がまだ完全に静まっていないせ
いだろうと思う。そこで眠られぬままに過ぎこし方の追憶にふける時、
これは夢ではないかと思うほど過去のさまざまなあたかも規則的に走
馬灯のごとく次から次と浮かんでくる…」

昭和16年(1941)10月:再召集されて家族に
「わしゃ、運が強いから敵のタマは当たらん」

昭和16年(1941)10月:『沢村投手を兵営に訪う』という訪問記に
 「(軍隊と野球の共通点は)何も考える余裕がないのです。体が資
本でプロにいた時よく揉まれて鍛えあげてきたので、それが何よりの
身上ですわ。(兵役を終えたら再び復帰するかどうかは)まだ考えて
いません。今迄はプロ球人として、生業に忠実にやり通してきたので
心残りはありません。この連隊は多くの戦友が戦場に行っていますの
で、帰ってから”プロへ入る”という様なことは…。僕たちもいつ戦
場へ行くか知れない身ですから…」

昭和18年(1943)1月某日:青田昇に対して
「(戦場の体験談の後)日本人もひどいことをやるが、アメ公もえ
げつないことをやるぜ」

昭和18年(1943)某日:多摩川河川敷を走る軍用列車を見て
「今度は俺の番や…!」

昭和18年(1943)と推定:妻優子の「戦争を恨まないの」という質問に
対して
「………(無言)」

昭和18年(1943)11月某日:小鶴誠に対して
「ツボさん、あんた、軍隊行ったかね。(首を横に振った小鶴に)
レはなぁ。もう行かん。絶対に行かん!


昭和19年(1944)4月中旬:青田昇への手紙
「とうとう三度目の旅にでることになった。今度はどこに連れてい
かれるやら皆目わからぬ。聞けば君も旅に出ているそうだから、再び
会えるかどうか。どうか体に気をつけて、がんばってくれ」

軍隊時代の某日:実家への手紙
「時々塹壕の中でアメリカ遠征などを思い出します。皆んな夢のよ
うです…」

昭和19年(1944)11月:妻優子への最後の手紙
「生きて帰れたらいい父親になる」

出典:「八回裏:沢村栄治発言集

1944年12月2日、陸軍伍長として3度目の応召中、乗っていた輸送船が
台湾沖の東シナ海で米潜水艦に撃沈され戦死。享年27。通算63勝22敗。
防御率1.74。
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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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