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私のビルマ戦記(17/終)

引き続き、小安歸一さんの「私のビルマ戦記」第17回をお送りします。
今回が最終回です。長い間ご愛読ありがとうございました。快く転載
をお許しいただきました小安さんにも、厚く御礼申し上げます。

13 ビルマ戦記を書き終えて

私のビルマ戦記は私が戦後帰還してから色々なビルマの戦記を読み、
それに私自身が体験したことを合わせて、私の云いたかったことを書
いたものが、ビルマ戦記―1~ビルマ戦記―4( P1~ P11)に書か
れている。昭和55年4月12日に発行された、私たちのビルマ戦記
「安」歩兵第128聯隊回想録には、私が聯隊に着任してから終戦まで
のことが掲載されていて、それ以前のことは割愛されているので、今
回それらのことを「生と死の分れ目」と「続生と死の分れ目」として
私の戦記に掲載した。またモーハンで聯隊に着任して以来のことも、
昭和53年3月に書いたものを基に稿を改めて書き直した。終戦後英
軍収容所にての生活は新たに書き加えたものである。それにカローの
野戦病院でお世話になった、長野県出身の日赤看護婦さんの御子柴さ
んとの奇しき再会を書かして頂いた。

私たちの時代の者は殆ど皆青春時代を、何らかの形で戦争の影響を
大きく受けている。二度と味わうことの出来ない若き時代の数々を失
ったのである。然し考え方によっては、ビルマで経験した連合軍との
戦闘により他では得ることの出来ない、「何か」を確かに得たと思う。
この「何か」が人夫々によって異なるのである。それは口に出してこ
れとこれというものでは無く、その人の心の中または身体に沁み付い
ていると思う。こう云って諦める他無いことである。

戦争というものはその戦う国の国民を不幸にするだけでなく、その
国の長い歴史の中に培われた尊い文明・文化をことごとく破壊するこ
とにある。中には壊されたものは再現不可能なものもある。取り返し
のつかないこととなる。出来うるだけ話し合いの外交努力により、戦
争は避けたいものである。これからも世界中の皆の努力と理解と協力
により、戦争が無くなるようにしたいものである。        
              
参考文献
潮書房 悲劇の戦場 ビルマ戦記 丸 別冊 太平洋戦争証言シリー
ズ⑩
文藝 春秋 英霊の谷        児島  襄
光 人 社 ビルマ戦記       後   勝
新 潮 社 遥かなインパール    伊藤桂一
文春 文庫 太平洋戦争終戦の研究  鳥巣建之助
角川 文庫 責任なき戦場インパール NHK取材班編
等々幾らでもある。
英軍収容所については
中公 文庫 アーロン収容所     会田雄次
中公 文庫 アーロン収容所再訪   会田雄次
              

            縁とは不思議なもの

1 はじめに

世の中で偶然というか、不思議なめぐりあわせというか、普通では
起こり得ないことが、現実のこととして起きたことについて書いてみ
た。それは昭和五十五年発刊された「私たちのビルマ戦記」「安」歩
兵第一二八連隊回想録の書評が、当時の朝日新聞の新刊本紹介欄に掲
載されたものを、小学校の教職を定年退職された読書好きな老人が読
まれて、これを買い求められたことによる。事実は真に不思議な縁と
いうほかない。

2 縁とは不思議なもの

或る冬の寒い日、会社の仕事を終えて帰宅すると、家内が、「お父
さん!今日長野県の木曽の湯川さんという方から電話がありましたよ。
帰りましたらお電話頂きたい。」と、伝えてくれた。

私は長野の湯川さん。記憶にもないし、一面識もない方だが、どん
な用件かなあと考えながら夕食をとった。食事が済んで家内がメモし
てくれた番号で電話をかけた。「モシモシ!湯川さんですか?私小安
です。今日お電話頂いたそうで、どういうご用件でしょうか?」「小
安さんですか、実は私、あなた方が書かれた「私たちのビルマ戦記」
を読みました。その中で小安さんが書かれた文中の、 ( 長野県出身
の日赤の看護婦さん御子柴さん ) を知っています。」と、思いがけ
ない返事が返ってきた。

或る冬の寒い日とは、五年前の昭和五十七年二月半のことである。
電話で湯川さんが云われたことによると、湯川さんは長野県木曽郡木
祖村薮原の宿場町に住んでおられ、長らく小学校の先生として教鞭を
とっていたが最近定年で職を辞され、好きな読書生活に浸っておられ
た。偶々朝日新聞の新刊本紹介欄に、「私たちのビルマ戦記」「安」
歩兵第一二八連隊回想録の評が掲載されていたのを見て取り寄せて読
まれた。その時私が書いた日赤看護婦御子柴さんという項を読んで、
ことによると湯川さんが知っている近所の日赤看護婦さんが、御子柴
さんを知っているかもしれないと思い尋ねたところ、偶然にも知って
いるということであった。それによると、御子柴さんは内地帰国後結
婚され、現在は長野県茅野市に住んでおられる原秋子さんであること
が判った。

湯川さんは親切にも原さんに電話をかけて、ビルマに従軍しカロー
野戦病院に勤務したことを確認して、私にこの旨を電話で知らせてく
れたのである。

その後私は、親切な湯川さんのご好意に報いるべくお二人と連絡を
続けた。

その年 ( 昭和五十七年 ) の夏の七月末に家族旅行で信州白馬に行
った帰途茅野駅で下車し、態々木曽の薮原から来られた湯川さんと、
原秋子さん ( 旧姓御子柴さん ) が待つ茅野駅頭にて、劇的な初対面
と、ビルマで別れて以来三十七年半振りの再会がなされたのである。
尤も原さんとしては戦地で沢山の戦傷病患者に接しておられたので、
私との対面は初対面と同様なものだったことでしょう。

御子柴さん達は、私とカローの野戦病院で別れた ( 昭和二十年一
月 ) 後ビルマの戦況が悪くなり、タイ国経由で苦労されて三十六歳
で復員され、その後縁あって茅野市の方の後妻として結婚され一女を
もうけられた。ご主人が亡くなられた後、民生委員としてご活躍され
県知事表彰をお受けになられる等、老後を社会奉仕に尽くされていま
す。今年七十六歳のなかなか立派なお祖母さまです。

私と湯川さんは原さんに種々手厚い心のこもった持て成しを受け、
ビルマ戦線の思い出話に花を咲かせた。

一面識もない湯川さんが、戦記の一節を偶然読まれたことと、その
親切心よりこの様な素晴らしい再会が果たされたことは、縁とは不思
議なものであるとただただ感激するのみである。   ( この項 昭
和六十二年二月末 記 )

3 おわりに

あの広大なビルマの戦場で、敵のチェコの重機で戦傷を負った一人
の下級将校が「しらみ」のついた衣服を纏い、昭和十九年の年末に近
い或る寒い日避暑地であったカローの野戦病院に入院した。そこでそ
の患者のお世話をしてくれた方が日赤の看護婦さん御子柴さん(現姓
 原さん)である。私は御子柴さんに傷の手当ては勿論、「しらみ」
とその卵が群生する衣服を煮沸消毒してもらった。また昭和二十年の
元日には当時の皇后陛下から下賜の包帯を頂いた。そのことを私は戦
記に書いたのである。

その後私たち三人は現在まで毎年年賀状の交換を行っている。第一
回の初対面・再会から十六年後の平成十年五月二十日頃湯川さんと私
は再度茅野市の原さん宅を訪ねた。原さんは老いても益々お元気で喜
んで私たち二人を迎い入れて下さった。以前お会いしたときのお話や
ビルマの話をされる原さんは、とても生き生きとされていて八十七歳
を過ぎられた老婦人には見られない若々しさが感じられた。今年原さ
んは九十三歳の高齢になられたが、年賀状も頂いているので現在もお
元気なことと想像している。また機会をえて湯川さんと二人でお伺い
したいと考えている。ちなみに湯川さんと私は同年の八十三歳である。
(2004-10-10 記)
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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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