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私のビルマ戦記(16)

引き続き、小安歸一さんの「私のビルマ戦記」第16回をお送りします。

10 英軍監視下の収容所生活(英軍作業に従事)

 1)パヤジ収容所の生活

パヤジの英軍収容所に着いたのは10月1日であった。此処は仮の
収容所で天幕が張られているだけで、何の施設も無く雨露を凌ぐだけ
であった。それでも日本軍と違って、食糧は量が少なかったが支給さ
れ、また医療施設はマラリア、疥癬等日本兵が困っていた病を治す特
効薬があったことである。流石に熱帯地方に多くの植民地を持ち、特
有の病気に対する処置や特効薬の研究は進んでいたと思う。私はマラ
リアをこの特効薬の後療法で完治し、日本に帰国後も一度も再発をし
ていない。苦しみに苦しみぬいた疥癬も、英軍から貰った軟膏の特効
薬で完全に治ったのである。パヤジ収容所には約1ヶ月余り居たが、
この間に多くの日本兵はこの特効薬で救われたことと感謝している。
只惜しむらくは、私の小隊の辻衛生兵長が、声門腫瘍(破傷風による)
で亡くなったことである。折角此処まで耐えて来たのに、ここで命を
落とすとは誠に残念なことであった。合掌 此処の収容所では特に英
軍の作業は無かった。また監視もそれ程厳しくなかったと記憶してい
る。日本の軍票は支給されて以来1ルピーも使うこと無くここで全額
没収された。

11月6日パヤジを発って列車輸送にて、ラングーン市郊外に位置す
るアーロン収容所に移動した。

 2)アーロン収容所の生活(蝿と悪臭に悩まされる)

アーロン収容所は四方有刺鉄線で囲まれた平坦な広い土地に、ニッ
パ椰子の葉の屋根にアンペラで囲いをした急造の仮小屋といったもの
が、幾棟も並んで建っていた。床は無く地べたに直接我々の携帯天幕
を敷いての生活となった。

収容所(これからキャンプということにする)には衛兵所があり、
此処には英軍の監視兵がおりまた周囲には監視塔もあり、四六時中監
視の兵が見張りや巡回をしていた。このキャンプの中には我々の聯隊
の兵だけで無く、他の部隊の兵も数多く収容されていた。

食事は各部隊に炊事場があり、英軍から現物支給されたもので調理
して、各隊に配分され各自に分配されるのである。収容当初主食とし
て1日米5オンス、アッタ粉(小麦粉の荒い粉)5オンス(1オンス
は16分1ポンドで約28.35グラム)計10オンス(約283.5グラム)で、
1日3食顔が映る様なシャブシャブな雑炊がやっとで、常にひもじい
思いばかりしていた。タバコは1年近く支給されなかった。また蚊帳
も1年くらい支給されなかったので夜寝るのに苦労をした。衣服も当
初は支給されなかったが、段々と歳月が経つうちに少しつつ支給され
るようになった。

キャンプでの我々の取扱は国際法やジュネーブ条約による戦争捕虜
の待遇で無く、日本降伏軍人( Japanese surrendered personae )
として国際法に抵触しない取扱をした。戦争捕虜であればそれなりの
制約を守らなければならないが、話し合いで出来るので英軍の方が有
利なことは自明の理である。我々はキャンプに居ってもやることも無
く、一日中空腹で食べることだけ考えていた。そこへ英軍から作業を
やる指示が来たので、直ぐそれにのって営外の作業をやるようになっ
た。

前日の夕刻までに作業の内容と人員ついて指示が来ると、聯隊内で
またこれを各隊に割り当てるのである。作業種類はその時々によりい
ろいろであり、軽労働、重労働、今云う3 K のものが多かった。当
時は外に出て空腹を忘れて過ごすことが第一であったので、兵たちは
屈辱的な作業もあったがこれを乗り越えて作業に従事した。将校に引
率された一行は、英兵の監視の下、トラックまたは徒歩で作業場に行
くのである。初めは監視が厳しく特にグルカ兵がサントリー(
sentry 監視につく歩哨を通常こういっていた)につくと、生真面目
な彼等は日本人の性格を解らないせいもあるが、時には本気になって
剣の着いた銃を我々に突きつけたこともあり、注意して付き合わねば
ならなかった。

キャンプに来て困ったことの一つにタバコが自由に手に入らないこ
とであった。ビルマ人は普通「セレ」という、玉蜀黍の葉に木屑とタ
バコの葉を刻んだものを混ぜて包んだ物を吸っていた。紙巻タバコは
市販では高かった。日本軍はジャワ島のチレボンで作った「興亜」を
南方では配給していたが、ビルマの第一線までは来なかったようであ
る。従って兵隊は戦争中からタバコには不自由していた。タバコは貴
重品であった。このような事情にあったので、作業で営外に出た途端
道に落ちているタバコの吸殻を、我先にと拾ったのである。所謂「も
く」拾いである。これは人間としての本能であって、この置かれた環
境で日本人とか日本軍の兵士とかの問題ではないと寂しいけれどそう
思った。吸殻のタバコの中には、恐らく英軍の女の兵士が吸ったであ
ろうと思われる、赤い口紅の付いたものもあった。流石に将校は面子
もありこのような行動はしなかった。然し将校も人の子、タバコを吸
いたい気持ちは皆一緒、後で兵隊が工面してきたタバコのお裾分けに
は預っていたのである。タバコには苦労したものである。

英軍の作業でよく行ったのはラングーン競馬場の観客席のスタンド
を、食糧等の倉庫に使っていた軍の貨物廠である。この広大なスタン
ド一杯に木箱入り、ダンボール箱入りの食べ物類の缶詰が山積みされ
ていた。米国製、豪州製が多く南米やその他世界各国の食糧があった。
このような作業場に腹がペコペコ にへった兵隊が仕事に行ったのだ
から堪らない。缶詰類は品名が全て横文字で書かれている。兵達は作
業の合間に監視の目をぬすんで、山積みされたダンボールの山の陰に
隠れて缶詰の缶を開けるのである。それが上手く直ぐ食べられるもの
に当たれば幸いであるが、往々にして野菜の水煮の CARROT (人参)
などに当たると、兵隊さんはがっかりしてナアンーダという顔をして
また次の缶詰を開けるのである。最初の頃は腹が減っての出来心であ
ったが、度重なるとこれは段々見過ごすことの出来ない問題であった。
一日の作業が終ってキャンプに帰るときは、必ず英軍の所持品検査が
あった。兵の中には衣類などに隠して缶詰を一つ二つ持っていて、検
査に引っかかるものがいた。英兵は怒って引率の将校に「如何してく
れるんだ。」と、ばかり食いかかる。当初は将校が兵を殴ることによ
る芝居でその場を凌いだが、これも回を重ねることにより効果がなく
なった。この問題は段々エスカレートして来た。

タバコ類アルコール類は特別に作られた倉庫に厳重な鍵をかけて保
管されていた。タバコは英国製のプレーヤ・ネイビカットの50本入
りの缶入りや、葉巻等、酒類はウイスキー、ラム酒、ブランデー等色
々の種類が沢山貯蔵されていた。勿論兵隊達は作業で此処にも出入り
していた。此処はこの倉庫を出る度に所持品検査は必ずあった。それ
でも兵たちは巧みにもこの厳重な所持品検査をすり抜けてタバコや酒
類をキャンプに持ち帰っていた。その根性、パワーには恐るべきもの
があった。

キャンプでの食料の配給の少なさと、過酷な労働、屈辱的労働、諸
々の恨みに対して憂さ晴らしをした。それはエバミルクの缶を数個、
木箱の板の先に着いた釘で孔を開けて逆さにしてダンボール箱に入れ、
山積みされたエバミルクの最上段に置くのである。数ヶ月経つとこの
エバミルクのダンボール箱の山は完全に錆びて中身は腐敗しているの
である。このような悪いことも偶にはやったのである。

この倉庫でもドンゴロスに入った小麦粉や飼料の入った100キロ位
の重さのものを担いで、スタンドの階段を上り下がりするようなつら
い作業もあった。このほか作業は道路工事、建設現場、汚物処理等々
所謂3 K の仕事も多かった。また我々はキャンプの住まいを改善す
べく、作業所から板や木材等を貰いうけ、土間の生活から床上げして
板敷きする等自らの手で改良を加えた。食糧も英軍との長い交渉によ
り段々とよくなり、米の量も一日16~18オンス位で定着した。毎日
の過酷な重労働からすれば支給された食料は必ずしも満足するには程
遠いものであった。

我々の気晴らしの娯楽は矢張り何と言っても麻雀であった。アーロ
ンに来て作業に出るとチーク材があるのでこれで早速牌を作り、これ
に本格的に彫刻を施し立派な牌ができた。皆盛んに遊んだものである。
また碁・将棋も材料が入るので碁盤碁石将棋盤将棋の駒が幾組も作ら
れこれも盛んにやるようになった。花札はタバコの空き箱に図柄を書
き込み、これを蝋をとかして油揚げとして、見事な花札が出来ていた。
あれだけの数の人がいると何でもやれることに本当に感心したもので
ある。私も終戦と同時に麻雀を覚え、ここで囲碁を初歩から教わり、
初めは井目風鈴付きでやって頂き、段々と一目一目と強くならしても
らった。このことは今でも感謝している。
 
このキャンプで最も悩まされたのは蝿の多いことと、悪臭の酷いこ
とであった。しかもこれは四六時中であるので毎日毎日の生活は本当
に厭な思いで過ごしたものである。この原因はキャンプの近くにラン
グーンの大規模な塵埃処理場があり、ここで発生する蝿とそこから出
てくる悪臭がその源なのである。我々がこのキャンプに居住したのは
乾季であったので特に酷く感じた。そのほか健康的には軍医も居った
ので問題は余り無かったが、食料が少なかった頃特に野菜が少なく皆
が便秘には悩まされた。しかし我々は内地に何時かは帰還するという、
一縷の希望を胸に抱きながらあらゆる屈辱や苦難に耐えようと努力し
たのである。このような苦しい生活を続けながら、昭和21年7月2
4日次なるキャンプ地ラングーン市ビクトリア湖畔のコカインに移動
したのであった。

3)コカイン収容所の生活(蟻が多かった)

終戦から早一年近く たっていた。然し帰国の話も無しに酷暑の地
ビルマで裸同然の姿で、毎日毎日英軍の辛い作業をやっていた。そし
てキャンプの移動である。また一からやり直しである。健康面は先述
したが軍医さんが居ったので、具合が悪い時には直ぐ診てもらえたの
である程度の安心感はあった。歯は治療する術が無いので、奥歯など
悪くなって欠けるだけ欠けて無くなってしまうのであった。歯は健康
の元であるのでこれがどうにも成らなかったことは心配の種であった。

コカインのキャンプに来てよかったことは、何といってもビクトリ
ア湖が直ぐ近くにあったことである。酷暑の地でマンデー(水浴)が
簡単に出来た。一寸土手を越えると湖である。一汗流して一杯と言う
わけにはいかないが、大変お世話になった。困ったことは樹木の下に
ありの巣があり、黒い大きな蟻でかまれると大変であった。この蟻が
多いのには閉口したものである。

このキャンプにても英軍の作業はアーロンキャンプの時と、ほぼ同
じ作業場が多かった。従って生活のリズムも住居地が変わっただけで、
さほど大きな変化は無かった。ただこの時期になって英軍から待望の
タバコが週に3個(10本入り)支給されたことである。我々にとっ
ては大きな出来事であった。銘柄はネプチュン・ネイビーカットで英
軍ではインド兵などに配給される普通品であった。支給されると人間
と云う生き物はまたその上の欲望を発揮して、一日一箱のタバコを吸
いたいと思うようになった。偶々炊事場でエバミルクが食料として英
軍より支給されていた。皆の要望としてこのエバミルクを現物で各自
に支給することにした。このエバミルク1本をバリケートの外のビル
マ人にたのんで売ると1ルピーの現金になった。この1ルピーをタバ
コ4個にするためには色々と工夫があった。作業に出た時インド兵の
キャンプの仕事に当たると、インド兵はお金が欲しいのでタバコ4個
と交換してくれるのである。一般的には1ルピーでタバコ3個にしか
ならなかった。こんな苦労もあったのだった。

またこの頃英軍から個人用の蚊帳が支給された。長い間ビルマの戦
線に参加して以来の願望であった蚊帳が支給されたのである。これに
よって夜蚊の襲撃から解放されてゆっくり寝ることが出来るのである。
皆が待ち望んだ蚊帳、大喜びであった。この様に英軍の我々を処遇す
る態度が少しつつよくなってきたのは嬉しいことであった。

作業には毎日出かけていた。以前と変わった事といえば、監視の英
兵の数が少なくなった事と、監視が幾分緩やかになった。それは作業
場で現場監督と我々が仕事のやり方に付いて交渉を持ち、タスクワー
ク( task-work 割り当て仕事)といって我々は当時請負仕事と理解
していて、一定の仕事量を決めそれが終れば何時でもキャンプに帰れ
ることにした。仕事の終ったグループから帰るので監視の英兵も分散
されて、時によっては監視の英兵が居ない時もあった。そんな時には
兵隊はぶらぶらとラングーンの街を思い思いに歩いたものである。

然しこの仕事のやり方は日本の兵隊の気質から行って不利であった。
仕事が割り当てられると兵隊は一目散になって短時間のうちに仕上げ
ようとする、そして仕上げて早く帰ろうとする。此処が問題でビルマ
では休まず働かずぶらぶらして時間を過ごすのが賢明と考えている。
案の定翌日からは現場の監督は交渉で仕事の量を増やしてきた。それ
でも兵隊は出来るだけ短時間に仕事を終りたがる。此の交渉に預かる
引率の将校は堪ったものではない、苦労は多かった。日本人には基本
的にこのように計画的でないというか、人が好いというか甘い気質が
あるようである。兵隊も段々分って来た様であった。

食糧の宝庫である貨物廠の作業には、その後も毎日兵隊は代わる代
わる行っていた。従って缶詰等を持ち帰る事故は何度も起きて、英軍
と日本軍の間でこれの処理について話し合いがもたれていた。然しそ
うした事には関係なく一般の兵隊はちゃんと作業をしているのに、そ
こから抜け出して一人ドンゴロスを担いで、これという目ぼしい物を
その袋の中に入れ、これを人目を忍んで競馬場の塀の外に出すのであ
る。塀の外にはビルマの現地人が待ち受けていてこれを持ち去るので
ある。この問題はここまでエスカレートしたのである。英軍は裁判に
かけるとか云ったようであったが、事実がどうなったかまでは承知し
ていない。その金で帰国する時には、背広、革靴等身の回りの品々を
揃えたとか、まるで嘘の様な本当のような噂が広がった。

英軍は17年のビルマ戡定作戦の時、ラングーンを放棄し敗走して
インドに逃げ去った。その時英軍は戦死した英兵を仮埋葬していたの
である。この仮埋葬された遺体を掘り起こして墓地に本埋葬する作業
があった。英軍の作業の中で糞尿処理の作業も最低で皆から嫌われて
いたが、この遺体処理の作業はそれよりももっと厭な作業であった。
と言うのもこの遺体処理作業を指揮する英軍の将校がこれまた程度の
悪いいやらしい人間であった。我々を敗残兵扱いにし、蔑んだ目で我
々を見下ろし、威張った口のききかたで指示をしていた。我々もこの
様な作業は初めてであったので戸惑ったものである。先ず指示された
場所をスコップで掘り起こし毛布に包まれた英兵の遺体を、土の中か
ら掘り出すのである。次に掘り出した遺体を新しい別の毛布に丁重に
移し替えるのである。それを墓地までトラックで運び、その毛布に包
まれた遺体を埋葬し墓標を建てるのである。この作業を朝から夕刻ま
でやらされた日は、心身ともに疲れ果てて参ったものである。その日
の夕食にコンビーフの料理でも出ようものなら、思い出して食べられ
たものではなかった。何が厭など贅沢なことは言わないが、しかしこ
のような作業はやりたくないと思った。敗戦国の惨めさをつくずく味
わされたものであった。この作業は最も屈辱的なものと思い知らされ
た。

この他作業は先述したように3 K のものが多く、我々は屈辱と苦
労に耐えながら日本へ帰れる日の一日も早からん事を祈っていたので
ある。このコカインキャンプには英軍の「禿げ鷹」軍曹と呼ばれた有
名な名物軍曹がおった。何時も朝早くから営門の側に立って、大きな
声を出して怒鳴るのである。カムオン!カムオン!とよく怒鳴ってい
た。大柄で身体に刺青をしていて上半身裸で怒鳴ると白い肌が赤くな
った。恐らくオーストラリア人と思われた。中々ユーモラスな人間だ
った。

またキャンプでは野外の娯楽として、兵隊による演劇会が時々催さ
れた。脚本を書く者。演劇を指導する者、小道具大道具衣装鬘などを
作る者、役者になる者、特に女形になる者は人気があり普段も女のよ
うな所作をしていた。一寸した劇団であった。キャンプにおってよく
これだけの道具を集めたものと感心したものであった。スポーツでは
野球が盛んとなり、六大学野球の早稲田の香川投手なども居て大いに
盛り上がったものである。この様なことをしながら月日は経ち、我々
の部隊もやっと帰国の順番が近く。なり、昭和22年6月1日コカイ
ン収容所を後にして、アーロン乗船滞留キャンプに移動した。

4)アーロン乗船滞留キャンプの生活  

ここは日本への帰国のための乗船待ちの部隊のキャンプである。従
って大した作業も無かった。帰還が近いのでキャンプの雰囲気は何か
落ち着きが無かった。何年かぶりに苦しい戦闘から解放され、終戦後
やく2年近くの屈辱的英軍作業に耐えて、やっとこの時を迎えたので
ある。皆がそわそわ、わくわくするのは当たり前のことと思った。

このキャンプに来て最も気をつけたのが健康であった。というのも
キャンプでは既にアメーバ赤痢が流行していた。伝染力が強く、悪性
の腹痛を伴う下痢が激しい病である。特効薬としてドイツ製の注射薬
エミチンがあったが、キャンプなので中々手に入りにくかった。それ
故キャンプ内ではこのエミチン注射薬は闇取引されていた。タバコ幾
つとかまた現金ルピーでも高値がついていたという噂は聞いた。

そうこうしているうちに、私が運悪くもアメーバ赤痢に伝染してし
まった。帰国乗船も近いというのに何と言うことかと心痛めた。激し
い腹痛とともに絞るような下痢が激しいので、夜中に何回もトイレに
行くのは苦痛であった。早速手島軍医に診てもらった。幸いなことに
軍医は手持ちの注射薬エミチンを持っておられるという事で、直ぐ私
にその注射をしてくれた。エミチンは3クール(1クールは3日うっ
て1日休んだと思う)位うたないと完治はしなかった。軍医さんのお
世話で私は乗船前にアメーバ赤痢を治すことが出来た。今でも思い出
して感謝している。手島軍医さんは帰国後千葉の館山医師会病院の副
院長をされていたが、平成7年11月に病を得て亡くなられている。
 合掌

6月も末になり愈々乗船が近いとのことで、身の回りの整理などを
した。所持品といっても殆んど何も無いのであるが、英軍から支給さ
れた個人用の蚊帳がある。蚊帳は皆支給されて持っているが、乗船前
にこれを現地人とタバコと交換することが通常行われていた。持って
帰っても日本では余り使うことも無いので、帰る船の中で吸うタバコ
という考え方のようである。私はタバコ(10本入り)35~36個
と交換したと記憶している。これで身の回りの整理はついたのである。
後はキャンプの中で親しくなった人々の内地の住所などを、トイレッ
トペーパとして英軍から貰っていた半紙でノートを作り、これに書き
つずり整理した。このノートは大変役立ち今も保存している。イラワ
ジ河畔のラングーン港に我々の乗船を待つ、復員船攝津丸に我が部隊
の兵がゆっくりゆっくり、船腹に垂れ下がったタラップを一歩一歩踏
みしめながら昇っていった。時に昭和22年7月7日ことである。

11 復員船攝津丸にて帰還、復員

待ちに待った復員船攝津丸が帰国の夢を膨らませて乗船した我々を
乗せて、静かにラングーン港の岸壁を離れたのは7月7日午後の4時
頃であった。我々の部隊はビルマ方面軍の帰還順位は148組中の9
6番目であった。それでも復員船が開始されて1年余が経っていた。
我々より後にまだ52組もあると聞いて本当に気の毒に思った。我々
の聯隊で一緒に乗船した将兵は凡そ450名位であったと思う。編成
と補充合わせて3千6百~7百名位の将兵が居ったのに、今ともに帰
還できるのはこれだけかと思うと感無量のものがあった。船はイラワ
ジ河を下り夕闇迫る頃、マルタバン湾を通過してインド洋をシンガポ
ールに向け航行していた。

摂津丸は貨客船で総トン数約1万トン弱、エンジンはタービンで最
高速度は17~18ノット位、然し当時はエンジンの調子がよくないと
いって13ノット位は出せるとのこと。約4千人位の将兵が乗ってい
て、我々が割り当てられた部屋も荷物を置くだけで略一杯で寝ること
は出来なかった。乾季で天気もよかったせいもあり甲板に出て過ごす
ことが多かった。航海は順調で途中給油のためシンガポール島のセレ
ター軍港に7月11日立ち寄り、翌12日に再び航海についた。シン
ガポールはビルマに旅発つ前に居たところであるので懐かしく感じた。
東シナ海も戦時中と異なり魚雷襲撃などの心配は無く無事平穏な船旅
であった。船で食べた食事も上等のものではなかったが、日本の米は
流石に美味いと感じた。

船での生活は単調であったので、私は大隊本部の下山曹長とラング
ーン出港から宇品到着まで、甲板で囲碁を楽しんだ。ラングーンを出
る時は私が3目位置いてやっていた。2回続けて勝つと1目上がる方
法でやっていて、台湾海峡を過ぎる頃には下山さんが白で私が黒の勝
負となっていた。内地が段々近付くにつれて勝負は熱がこもってきた。
お互い負けまいとして頑張ったものである。

その内に私が黒番で2回続けて下山さんに勝ったのである。約束に
より次からは私が白石を持つことになった。然し下山さんには面子が
あり、私と自分が黒石で碁を指すことは出来なかったのだろう。それ
から下山さんは私と碁をやらなくなった。残念なことであった。碁も
朝から晩まで毎日指しているとある程度は強くなるものである。

船内では内地に帰ってからの話が弾んでいた。京都の出身者が殆ど
であるので、祇園祭の先祭はもう終ったが24日の後祭には間に合う
のではないかなど、皆が国に帰ったような話に花を咲かせていた。そ
の間にも船は絶え間なく航行を続けており、タービンエンジンの音も
心よく聞こえていた。

我々を乗せた復員船攝津丸はラングーン港から途中セレター軍港を
経由して恙無い航海を続けて、今「7月20日」静かに皆が皆夢にも
見た懐かしい故国日本の港宇品に無事入港した。感無量で出る言葉も
無かった。万歳!万歳!

ラングーンはコレラ指定港で、停泊して所定の検疫を受けた後でな
ければ上陸出来ないとのことで、宇品の岸壁に係留したまま船で過ご
すことになった。その夜は広島の街の灯りを仰ぎながら我慢をしたの
であった。上陸は色々な都合により23日になった。上陸後復員手続
き等をして翌24日晴れて復員することが出来た。京都の連中は祇園
さんの後祭りだと急いで帰途についたが、当時の列車事情からすると
残念ながら間に合わなかったのではないかと思う。私も当日故郷に向
かっていた。

12 終わりに

私たちはビルマで戦争を経験した。今考えると私たちの貴重な青春
時代はその殆どを、この戦争というものに費やしたように思う。それ
ではこれが無駄であったかと言うと、決してそうは思わない。貴い命
をかけての経験であった。

これは再び味わうことの出来ない貴い経験をしている。この貴い経
験を後世に残すべくこの戦記も書いているのである。戦争が終った時
に感じたことは、二度と再び戦争というものが起こらないことを願っ
た。今でもこの考え方には変わりは無い。戦争を経験した者はその考
え方を変えるべきでは無いと思う。

私たちは幸いにも無事日本に帰還できた。然し不幸にして亡くなら
れた方々も数多くいる。これ等の方々も不幸であったと思うが、後に
残された妻子、親兄弟の中には、愛するわが夫、父、頼りとする子供
を失って、本当に不幸になられた方々が大勢居ることを忘れてはなら
ない。その意味からも、毎年行われている慰霊祭は有意義なことと思
うのである。

世界の為政者は先の湾岸戦争、イスラエルとパレスチナの紛争、そ
してイラク戦争及びイラク武装勢力との終り無き戦い、を如何にした
らこれを起こらないように出来るかである。有史以来戦争や紛争がこ
の地球からなくなったことは無い。しからばどうすればよいのか。答
えは中々出てこない大きな問題である。そこで各国は話し合いによる
外交努力をトコトン行うことが第一と考える。

覇権主義を持たないことである。そんなこと分っている。分ってい
ても出来ないのが今おかれている世界の現状である。       
(2005-2-10記)
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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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