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私のビルマ戦記(15)

引き続き、小安歸一さんの「私のビルマ戦記」第15回をお送りします。

8 シッタン河畔の湿地帯の戦闘

当時(昭和20年6月頃)、既に首都ラングーンは陥落しており、
ビルマ方面軍司令部はモールメンに転進していたことは先述の通りで
ある。それまでビルマの南西部(アキャブ方面)にあった第28軍
(策集団)は、マンダレー街道とラングーンが敵側に占領されたため、
退路を遮断されてペグー山系中に取り残された形になった。

我々はシッタン河畔東岸のザロッキーに布陣して英印軍と対峙して
いた。また一方においては、第28軍がイラワジ河を渡り、敵中のマ
ンダレー街道を横断して、雨季で増水したシッタン河の濁流を筏で渉
ってくるのを援助した。ビルマの雨季は連日殆ど終日激しい雨が降る
ので、乾季には水無川の河川もすぐに水嵩を増した。敵中突破作戦が
始まる前の第28軍はほとんど無傷であったが、撤退作戦開始後は雨
季のイラワジ河の渡河とマンダレー街道の横断作戦で相当数の兵力を
消耗し、シッタン河畔に着いた時には既にその数は半数位になってい
た模様である。その上シッタン河の渡河に当っての筏つくり等の大変
な苦労をしたようであった。雨季のシッタン河は文字通りの大河とな
り、濁流渦巻く悪魔の河であった。従って折角シッタン河畔まで到着
し筏をつくって渡河した将兵が、またここで尊い生命を数多く失って
いる。聞くところによれば無事にシッタン河を渡河した将兵は約二割
程度とのことであった。

(ここで回想してみると、第28軍は2ヶ師団と1ヶ旅団で兵員約4
6~47千人の編成である。当時情報の少なかったことにもよるが、
第28軍が撤退作戦を取らず、英印軍と戦闘をしたとしてもこれだけ
の大きな犠牲は払わなかったと思われる。最高指揮官の判断はこれだ
け重いものと痛感する。)

ザロッキーに到着してから、師団や聯隊が戦力低下のため、その数
を減らすということであった。我々の第3大隊もなくなるので、私の
重機中隊は第2機関銃中隊と一緒になるということで、私は一時第2
機関銃中隊付になった。然しその直後、第1中隊に配置替えになった。
3大隊から1大隊へ、しかも重機中隊から小銃中隊への配置替えであ
る。私としてはどうなっているのか、よく分からないがやるしかない
と思った。1中隊へ行ったが兵が10名位居るだけで、他に将校も下士
官も居なかったと思う。何せ兵の顔も名前も皆目分らないのだから始
末が悪い。その後中隊長として西村中尉が来られた。大隊長は村上大
尉であった。

一般中隊は初めてのことであったが、配属の直後小哨に出された。
小さい川を渉って甘蔗(砂糖黍)畑を通って行った、シッタン河岸に
近い小高い丘に小哨が置かれた。この丘からシッタン河越に敵陣地が
一望することが出来た。我々は10名位からなり、聯隊砲中隊から砲隊
鏡を借り、係の下士官にも応援してもらった。この砲隊鏡によって夜
明けから日没までの敵情を監視していた。また日没から夜明けまでは、
部落の灯火の状況などについて監視し、その状況を逐一聯隊本部に報
告していた。

当時聯隊はこの戦争最終の補充として、ジャワで幹部候補生教育を
受けた見習士官(第12期)が10数名配属された。若手将校が少な
かったことと、シッタン河畔はデルタ地帯になっていて敵情偵察が困
難なこともあって、将校斥候には中隊長級、あるいは古参中尉も出さ
れていた。そこへ若い元気溌剌たる見習士官が配属されてきたので、
聯隊ではすぐ各方面にこれ等若い見習士官を将校斥候として出した。
しかし、これ等の見習士官は戦場は初めてであり、戦況その他地理不
案内とその上雨季で湿地のデルタ地帯等の悪条件も重なって、斥候に
行った幾組かは不幸にして帰還しない者もあった。将校斥候について
は以前にも書いたが、将校斥候は只出せば効果が得られるものではな
いと思う。その時々の戦場の状態、状況により、より適切に上司が判
断せねばならぬことである。この戦闘に於ける将校斥候については後
日談が色々とあった。何せ目の前は濁流渦巻くシッタン河があり、デ
ルタ地帯である。これを将校斥候だけで渉れるはずが無い。また当時
敵側の勢力が圧倒的に強かったので、現地の住民は皆といっていいほ
ど我々を敵視していた。従い皆敵の土匪となっており、若い戦争未経
験の見習士官が将校斥候に出たとしても、何もせずに捕虜になるのは
当然のことであった。私は小哨に出ていたので、この将校斥候の難か
らは逃れることが出来た。

6月も末の頃になって、聯隊は7月初めからシッタン河を渡河して
敵陣地を攻撃するから、その準備を整えるように命令があった。先ず
食糧の準備であった。デルタ地帯で湿地が多く、飯を炊くことは困難
であったので干飯を作った。飯を炊いてこれを乾かすのであるが、雨
季で連日の降雨で困難かつ良いものができなかった。それに副食とし
て水牛の干肉を作った。私は雨と疲労のためにマラリアがおこり連日
40度からの熱を出していた。私は今度の戦闘には参加したくなかっ
たのが本音であったが、我儘は言えず7月1日に陣地を出発し、シッ
タン河を工兵隊の鉄舟で渉り、それからデルタの湿地帯を行軍した。
然し私は熱が下がらず苦痛の行軍であったが、それでも何とか隊列に
ついていけた。

小川は行く手にいくつもあり、これは舟なしで渡るので、雨と渡河
で全身ビショ濡れである。またこの小川には人間が一歩川の中に足を
入れると、ヒルの群れが一斉に我々に向って来るのには、本当に身の
毛がよだつ思いであった。更に深く敵中に入り、工兵隊の応援を得て
鉄舟で敵前上陸を敢行したこともあった。鉄舟に乗る前から敵の射撃
を受けていた。鉄舟に乗って身を隠し工兵隊の指導に従って、川岸近
くの川中に飛び降りたのであるが、背が届かず慌てて足を浮かせて泳
ぎやっと川岸に着いた。

敵前で弾の飛んでくる中やっとのことで陸地に這い上がり、先ず袴
(ズボン)の中に入った水を吐き出すことが先決であった。私の経験
として敵前上陸はこれが始めであり終わりであった。この様なことを
しながら、聯隊はミッチョウにある敵陣地を攻撃すべく、デルタ地帯
の民家が点在している地に展開したのであった。上空から見れば恐ら
く点在する島島に、聯隊全員がポツンポツンと折るように見えたこと
であろう。

7月8日私はこの日も発熱して最前線の民家に横たわっていた。朝
から敵の地上攻撃機ボーファイター(米国製の新鋭機)の銃爆撃が続
いていた。寝ながらその攻撃の音を聞いていたが、何時もの攻撃とは
違うように思えた。私はこれは如何と感じ、直ぐ飛び起きて屋外に出
て椰子の木に身を隠した。と、同時にボーファイター数機が、私が今
まで寝ていた民家に機関砲の射撃を激しく浴びせかけて来た。空を仰
ぐと何時もは一定方向から編隊で攻撃して来るのに、今日の攻撃は機
数も多く数方向から編隊による攻撃であった。私は屋外に出て良かっ
たと思った、あのまま寝ていたら機関砲の銃撃でやられたであろう。
勘が働いて一命を取り止めた、これも戦闘経験を積み重ねて出来るこ
とである。

今日の空襲によって菊池聯隊長が戦死されたとの報が流れた。また
民家の中に居て機関砲の直撃で戦死したものが多かった。敵は主とし
て民家攻撃をしたようであった。機関砲の弾が腕にでも当たると、腕
はもげてしまうほどの威力があった。

この戦闘もわが方は、聯隊長戦死等の大きな損害を受け、撤退しな
ければならないこととなった。戦闘の結果は初めから分かっているこ
とではあるが、残念にもザロッキー陣地に引き返した。出発から10日
以上も湿地帯で戦い、またヒルの害を防ぐため巻脚絆をしていたので、
大方の将兵は両脚が膝から下はズル剥けとなり、化膿などしてこれが
治療に暫くの間専念しなければならなかった。湿地の水が悪いことと、
長い間乾かすことなく常に濡れた衣類を肌につけていたことが原因と
思われた。その後は戦闘も膠着状態が続き、敵は専ら空からの攻撃が
主となっていた。

師団や聯隊の再編成も具体的に行われないまま、7月末、8月初め
を迎えていた。この頃になると敵は空から盛んに伝単を良く撒くよう
になった。伝単は日本語で書かれ写真も載っていて、広島に特殊爆弾
投下、ソ連の参戦、続いて長崎にも特殊爆弾投下等のニュースを伝え
てきた。またその外にも日本側の戦況の不利を伝え、連合軍側の勝利
を伝えるものであった。我々はこれを見てデマも程ほどにしろと言っ
てはいたが、或いはと云う感じがしないでもなかった。

そういう状況下にあって、前日まで飛行機も我々の上空を飛び、敵
の弾も飛んできていたのに、8月15日は夜明けから敵の砲撃もピタ
リと止り、敵機もわが陣地の上空は飛ぶが銃爆撃を加えることは無か
った。我々はおかしいなおかしいなといいながら、何か大きな変化が
あったのだろうと話し合っていた。

そのうちに敵機からの伝単には、日本国はポツダム宣言を受諾して、
日本軍は無条件降伏をしたというニュースが書かれていた。我々はこ
の様な伝単のニュースを信用することは出来なかった。開戦以来今日
までの将兵の苦労を考えると、無条件降伏ということは何としても受
け入れることの出来るものではなかった。敵の砲撃、空襲はなくなっ
たが、我々は従来通り薄暮に敵から火が見えない様に、また煙が目立
たないように、何時もの通り注意しながら炊飯をした。

敵の伝単は南方軍総司令部総参謀長沼田中将が、ビルマの日本軍が
無条件降伏するという降伏文書に署名したというものまで撒かれてい
た。8月16,17日の2日間は何とも云えない不気味な状況の中で
過ごしたのであった。そうして来るべき時が遂に来たのである。 
(2005-1-31記)

9 終戦、武装解除について

終戦という事実が我々にわかったのは8月18日であった。その朝
重大な発表があり、「日本は天皇陛下の名において、米英連合国と停
戦協定を結んだ。ビルマ方面には陛下の御名代として閑院宮春仁王殿
下が派遣され、親しく停戦協定についてお話がある。」と、云うこと
であった。

我々はこれを聞かされて、停戦協定という事で正直!将兵全員が
「よかった、よかった。これで助かった。日本に帰れる。」と、思っ
たと想像される。事実は日本が無条件降伏したのであるが、あの時の
我々のおかれた状況からすれば、発表が無条件降伏ということであれ
ば、我々は素直に降伏したか否かは当時の感情からは何ともいえない。
各自は停戦協定でよかったと安堵したのであったが、ただ敵の伝単に
よる無条件降伏なら我々はどのように処置されるかに一抹の不安はあ
った。停戦発表後も暫くは今まで通り陣地で過ごしたが、その後聯隊
は一箇所の集落に集まった。戦争は一応終ったようであったが、その
後どのようになるかは皆目不明であった。皆夫々の考え方でシンガポ
ール位までは何とかなるのではないかとか、いやいや満州だけでその
他は皆返還せねばならないのではないか、とか、いろいろの意見を云
う者がいた。無条件降伏、ポツダム宣言なるものについて全然無知で
あった。

そういうことはとも角として、現実にこれから先我々がどのように
して生活し、何時どうやって日本に帰還することが出来るかという議
論には及ぶが、皆自分達の都合のいい考え方だけであって結論は出な
かった。然し先はどうあれ、生きるという希望だけはお互い確かめ合
ったのは事実であり、最も喜びと思ったことである。

軍は終戦になって暇が出来たせいか、シッタン河畔に近い集合地の
全く物も買えないところで、戦闘中に支払うことの出来なかった将兵
の俸給を精算して軍票で支払った。終戦近くなってからは日本軍のビ
ルマにおける威信もがた落ちとなり、これに伴って軍票の価値もなく
なっていた。我々は第一線で戦闘また戦闘でこの事実を知らなかった
から、この時期に支給された軍票を貰ったものの、後で考えると滑稽
なことであった。然し軍も軍で中々強かであったと思う。この軍票も
後日武装解除後に英軍により全部没収された。

終戦になったので部隊の再編成は無くなったが、この後は戦闘の為
でなく軍の規律を保つため、聯隊の編成を建制の形に整えることにな
った。そこで私は9月初めに第一中隊から第一大隊砲小隊長に配置替
えを命ぜられた。第一大隊砲小隊は3月5日イラワジ河畔のイワボウ
の戦闘で、小隊長大倉少尉(京都・伏見の酒造月桂冠の子息)が戦死
されて以来小隊長が不在のままであった。聯隊はその後も内地帰還復
員まで建制のまま維持された。

終戦になって先ず普及したのが麻雀であった。丁度竹藪の中で生活
していたので、器用な人が早速その竹を切って牌を作り、それにイン
クで書いて使用した。次いで彫刻した竹の牌を作るようになった。終
戦になってからは此れと言って決まってやることもなく、麻雀の流行
は当然の流れであった。

そうしている内に、英軍の指示でシッタン河を渡ってその西側に移
動した。武装解除は9月23日にモパリンコールで行われた。鉄道線
路脇に設けられた武器集積所に、個人装備の三八式歩兵銃(予め菊の
御紋章は鑢で消しておいた)、軍刀、拳銃、双眼鏡、磁石等は各自が
夫々集積所に持っていった。軽機、重機等は纏めて集めた。この武装
解除によって日本軍は完全に英軍に降伏したという実感がわいてきて、
万感胸に迫る思いであった。

私はこの武装解除の時、英軍用の懐中磁石を持っていたが、何らか
の疑いをかけられても困ると思いこれを出さなかった。個人の所持品
検査等はなかったが、後日移動中にこの懐中磁石を道路脇に捨ててし
まった。その後、我々は鉄道線路上をジープが牽引する台車に乗せら
れて、ペグーに近いパヤジの英軍収容所に収容された。収容所といっ
ても英軍キャンプの近くに張られた天幕の粗末なもので、我々が持っ
ていた携帯天幕一枚を地面に敷きその上に寝たものである。砂地であ
ったせいもあり蠍が多かったのには驚いた。

これから愈々英軍監視の下に収容所生活が始まるのである。私は昭
和20年8月20日付けにて陸軍中尉に昇進していた。所謂ポツダム
昇進である。

(ジープは終戦になって初めてお目にかかった。普通道路を走る時は
タイヤを車輪につけて走る自動車である。然しタイヤをはずして鉄道
のレールの上を、牽引車として走ることには真実驚いた。)  
(2005-2-4記)
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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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