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私のビルマ戦記(14)

引き続き、小安歸一さんの「私のビルマ戦記」第14回をお送りします。

この戦闘で戦友の第2機関銃中隊の今井少尉は迫撃砲の破片が背中
などに当たり後方に下がった。戦場ではあったが偶然にも下がり際に
彼と顔をあわせることが出来たので、「元気になって早く帰ってこい
また会おう。」と、声を掛け励ました。しかし、彼はカローからタイ
国のチャンマイに下がる途中で戦傷死した模様である。戦後内地には
帰還していない。合掌 (2005-1-25記)

6 迫撃砲の煙弾を至近に受ける

ピンヤンはカロー街道を挟んで南北から山が迫っていて、街道の北
側には流れの少ない川があった。南側の山は石や岩の多い岩山であっ
た。我々の重機中隊はこの南側の山の道路沿いで、カロー街道を見通
せるところに陣地選定をした。壕を掘ることは出来なかったが、岩山
の岩石を利用して銃座をつくった。北側の山には友軍の小銃中隊が守
備をしていた。街道の南北から山が迫っているので、敵は飛行機を自
由に使うことは困難なようであった。また南の山側は急斜面で深い地
隙が数多くあった。明日は天長節、戦場でも何かいいことがあるよう
にと、祈る心の余裕はあった。大東亜戦争も緒戦の頃は、祝祭日には
必ずといっていい程、輝かしい戦果が発表されたものである。しかし、
当時の状況ではそのようなことは考えられなかった。パヤガス高地か
らピンヤンに転進の途中、貨物廠の野戦倉庫がその持てる物資を後方
に運ぶことも出来ず、自ら火を放ってその物資が炎炎と燃えていた状
況を思い返していた。

4月29日はそろそろ雨季に入る時期ではあったが、朝から上々の
天気であった。敵はキャウセの戦闘の時と同じように、グルカ兵と思
しき兵からなる小部隊を、堂々と道路北側の川沿いに我が陣地に侵入
させてきた。これを撃つと必ず迫撃砲の一斉砲撃を受けることは分っ
ているが、かといってこの小部隊を黙って通過させる訳にもいかず、
結局射撃するところとなった。敵の小部隊は相当数の損害は出したで
あろう、慌てて逃げ出していった。やや暫くしてから、案の定迫撃砲
の煙弾を撃ちはじめて弾着の調整を始めた。普通なら敵は空から偵察
機によって弾着を修正するのであるが、南北から山が迫っていたので
これが困難なためであった。

そこうしているうちに、銃座の近くにいた私と奥野上等兵の1メー
トル位左に迫撃砲の煙弾が落下した。煙弾は落下と同時に火花と白煙
を吐いた。火花は私と奥野上等兵の襦袢に飛び散って、襦袢はボツボ
ツと焦げて背中は火傷だらけになった。私はその時迫撃砲の破片か、
飛び散った岩の固まりか、瞬間であったので良く分からないが、口を
負傷し前歯門歯3本を折ってしまった。負傷はしたが戦闘はそのまま
続けた。銃座は敵前方はよく見通せたが、また敵からも格好の目標と
もなった。ここしか銃座は選定できなかったのである。その後も迫撃
砲の砲撃、チェコ軽機の猛射は続いていた。

わが方の乏しい火器では応戦の方法も無く、損害も多くなったので
止む無く山上へ陣地変換するために岩山を登った。これを見た敵は砲
の攻撃からチェコ軽機の射撃に重点をおいて攻撃してきた。途中私の
当番兵をしてくれていた松井一等兵は、敵軽機の銃弾を受け名誉の戦
死をしたのは残念であった。合掌

岩山は山頂に登りつめる手前に大きな洞窟があったので、その中に
重機と共に入り全員難を逃れた。洞窟は中が二重になっていて、何人
でも入ることの出来るほど大きなものであった。早速洞窟の入口に銃
座をつくり、重機を据えて射撃を開始した。敵の攻撃はその後も激し
く続いたので、我々は洞窟を出ることが出来ず夜を迎えることになっ
た。敵は我々に夜間照準を合わせていて、夜間まで洞窟めがけて軽機
の射撃を続けていた。私も敵の情勢は如何かと洞窟の入り口を覗いた
途端、夜間に関らず敵弾が飛んできた。間一髪でやられるところであ
り本当に命拾いをした。

大隊本部からは4月30日夜半まではこの陣地を守るよう命令が来
ていた。夜明け前に我々は洞窟を出て、今日一日保持できるような陣
地を探した。地隙は沢山ありそのうちの適当な地隙があったので、重
機はカロー街道と川沿いに射撃が出来る銃座に据え、人員は皆地隙の
中に入った。この地隙は人間がやっと入れる位の幅だが、縦に深く細
長いもので対地、対空に安全なところであった。昨日に引続いて朝か
ら迫撃砲の攻撃は激しかったが、チェコの軽機の射撃は殆ど無かった。
また歩兵部隊による攻撃も無く、迫撃砲の攻撃以外はなくて比較的平
穏に日暮れを迎えることが出来た。夜半になって後退の命令が出た。
私は口の負傷と背中の火傷で参ってはいたが、行軍することは出来た
のは不幸中の幸いであった。

この様な先の見えない無意味とも思われる戦闘を繰り返へし繰り返
へしやり、我々は今日も一日命が永らえたとの思いを抱きながら、重
い足取りで重い重機を担いで一歩一歩後方へ下がった。当時ビルマの
首都ラングーンは敵の機甲部隊による攻撃で敵側にあり、日本のビル
マ方面軍司令部は既に4月23日にはラングーンを放棄してサルウイ
ン河畔ビルマ第2の都市モールメンに転進していた。

7 重機と籾つき

ピンヤンを後にした我々はビルマの避暑地であるカローの街を通過
して、モチ高原を北から南へ縦走し、マルタバン湾に注ぐシッタン河
口に近いザロッキーまで徒歩で大移動することとなった。記録による
と5月初めカローを出発し、ザロッキー到着は6月22日となってい
る。生憎雨季が始まり毎日毎日降り続く激しい雨の中の難行軍であり、
我々の想像を遥かに超えたものであった。これが約一月半の長旅であ
る。

戦闘中、行軍中の食糧は軍から支給されるものはごく稀で、殆どの
食糧は自給自足せねばならなかった。軍から偶々支給されるのは野菜
(主としてジャングル野菜)牛肉類でごく稀であった。ビルマは幸い
なことに農業国であり米作が主で各農家は夫々家ごとに米を籾のまま
保存していた。住民は戦争が激しくなって家を捨てて逃げる時も、籾
はそのまま農家に残されていた。我々はこの籾を無断で失敬して、農
家にある臼と杵で米を必要なだけ搗いて精米にして、これを靴下や背
嚢に入れて行動した。

毎日重機を担いで行軍するのは重労働であるので、本来から云えば
一日5~6合の米は食べるが、重機と米の重さを考えてどうしても米
の量を加減して持つようになった。その他常食としては岩塩があった。
これも農家から無断借用して必需品として所持していた。これだけあ
れば生命だけはどうやら維持することが出来た。

この長途の行軍は我々もある程度の覚悟を以って望んだのであるが、
雨季に入ったこともあり重機を担いでの毎日のことであるので、重機
中隊はどうしても一般小銃中隊に遅れることになった。この遅れを取
り戻そうとして色々工夫して、今まで銃身と脚に分解しての搬送であ
ったのを、すぐさま戦闘ということもない状況と判断して、銃身を更
に特別分解し兵各自に部品として搬送するようにした。それほど皆が
心身ともに疲れ果てていたのである。疲労に雨! 当然マラリアのた
め発熱するものが多かった。これ等の悪条件のため一日の行軍は20
キロが精々であった。

行軍途中で携帯の米がなくなると部隊は大休止して、一日休んで籾
を搗いて精米を作るのである。携帯する米の量は持てる限界までであ
るが、次の大休止の予定地までの行動予定日数分は、どうしても米に
してこれを持たなければならなかった。ある時は大休止の予定地に着
く前に私の中隊は米が無くなり、私は各自の背嚢の底にこぼれた米を
拾い集めさせ、また足りない分は他の中隊の兵から分けて貰ったこと
もあった。米は我々には何にも代えがたい食糧であった。この様な苦
労を重ねて行軍し目的地のシッタン河畔にたどり着くことが出来た。
この長途の行軍で重機の搬送を従来の分解搬送から、普通は決してや
ることの無い特別分解をして、重機の部品の形態で搬送した。雨季で
激しい雨が降るので重機の錆が心配された。ザロッキーに着いてこれ
を点検したところ、矢張り「キンテイカン」が錆びていた。然し射撃
には異常が無かったのでホットした。

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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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