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私のビルマ戦記(13)

引き続き、小安歸一さんの「私のビルマ戦記」第13回をお送りします。


5 キャウセ、パヤガスの戦闘(戦友今井少尉負傷)

イラワジ河畔イワボウの戦闘は、今まで北ビルマのジャングル地帯
の戦闘であったのが、平坦地の戦闘に変わった。敵の攻撃態勢も従来
の迫撃砲の集中砲撃に加え、 M-3, M-4型の戦車を駆使する広範囲の
攻撃に変わってきたと感じた。また、これにより我々が受ける重圧は
今までより強く損害もまた増大した。

イワボウを撤退した我々は、次の防衛線をキャウセとして、残り少
ない砲は牛車で運び、重機は相変わらず分解搬送で後退を続けた。私
も入院により体力を回復したので兵に交じり、重機の銃身(重さ30
キロ)を代わる代わる担いだ。一人でも担ぎ手が多ければそれだけ兵
は助かるのである。重機の脚(これも約30キロ)も同じように搬送
した。

このようにして目的地のキャウセに着くことが出来た。軍からの命
令はキャウセ防衛100日、ここをどうしても死守しなければならな
いという。私たちもビルマにおける戦争そのものに、懸念を持ち始め
ていた。初めは戦争未経験な下級将校、お国のために戦うことは恐ろ
しくなかった。日時が経つにつれ攻撃命令は来るものの、武器弾薬医
薬品被服食糧等どれ一つとして補給は無い。悪疫瘴癘の地その上天候
も雨季(5月~10月)には連日ドシャ降りの雨、乾季(11月~4
月)には炎天続きで酷暑で大切な水の補給が困難となる。戦闘では彼
我の戦力の差が大きすぎ、我が方の尊い命を多く奪はれる。従い我々
は自衛の策として、命令は命令として従うが、出来るだけ兵の命の損
傷を少なくするよう配慮するなどした。昨年からフーコン、インパー
ル等大きな作戦の失敗があり、今現実に敵にイラワジ河を渡られこの
様に攻撃を受けている。中央ビルマの突破も敵には容易く出来ること
で目前に迫っている状況にある。キャウセ防衛100日もお題目だけ
で何の意味も持たないと思った。

キャウセに着いて陣地構築に取り掛かるのであるが、資材も無いの
で重機の銃座を十字鍬で掘ってつくり、あと個人用の壕を掘るだけで
精一杯である。我々は全て徒歩しかも重機を背負っての移動であるの
に対し、敵は全て車両による追撃である。防衛100日といってもど
うにもならないことは、自明の理である。戦闘は迫撃砲の砲火で開始
された。砲火が暫く続くとその後歩兵部隊がのこのこと我々の眼前に
現れてきた。これを射撃すれば味方の陣地が明白となり、また降るよ
うな迫撃砲弾の洗礼を受けることになる。かといって我々の眼前を通
過させるわけには行かない。英印軍の兵士の中にヒマラヤ山脈の麓の
国ネパール出身のグルカ兵がいる。このグルカ兵は死を恐れない。頭
は丸刈りの坊主頭で、頭の天辺に2~30本の長い毛を残し、死んだ
ら神様がその長い毛をつかんで天国に昇天させてくれると信じている
のである。従ってグルカ兵は敵前でも平気で身を隠すことなく進んで
来る強い兵である。

我々は敵を十分引き付けてから重機を発射させた。眼前の敵は倒れ
るものが多くそれでもあわてて逃げ帰るものもおった。それから暫く
して案の定敵は迫撃砲弾の雨を、我々の頭上に長い時間にわたり降ら
せた。また敵は日本軍が一兵でも陣地を守っていれば、歩兵部隊は突
撃してくることはなかった。しかし戦闘はこの日一日だけで、わが軍
は優勢な敵砲火に随所が撃ち砕かれ後退の止むなきに至った。

敵は我々がこの戦闘を戦っている間に、主力はイラワジ河を渉り戦
車を含む優勢なる機動部隊で、中部ビルマの要衝メークテーラを落し
首都ラングーンに向かって南下しているとの情報であった。そこで我
々はキャウセから南下して後退することが出来ず、キャウセから東側
の山岳道路を南下したのである。

キャウセからの山道を何時ものように、重機の重い銃身と脚を交代
で担いで下がった。私も出来るだけ多く銃身を担ぐよう心掛けた。数
日かけてやっと目的地のカロー街道に、その日の暮頃着くことが出来
た。疲れた身体を一寸休めようとする暇もなく、聯隊本部より呼び出
しがあり急いで行くと、各大隊から夫々一組の将校斥候を出すという
命令であった。その後当時聯隊に一枚しかない25万分の一の地図を
前にして説明があり、私はその地図の概要を書き取り直ぐに大隊本部
に帰った。斥候の目的地までは約40キロ位あり一晩で行動するのであ
るから、足の強そうな下士官、兵を選んで5名の編成をした。疲れも
忘れて直ぐ出発した。

カロー街道はアスファルト舗装されていたので歩き易く西に向かっ
てどんどん進んだ。途中師団の三宅参謀に会い斥候の目的など聞かれ、
しっかりやるように励まされた。参謀が持っておられた5万分の一の
地図を見せてもらったところ、目的地のパヤガスまでは一枚の地図で
は足りず二枚にわたっていたい。あらためて40キロの道程の遠さを
思った。明朝までに敵情を報告せねばならぬので先を急いだ。進んで
行くうちに道路わきの大きな竹藪の中に方面軍か軍の貨物廠の野戦倉
庫があった。我々一行の中に私をはじめとして軍靴を履かず地下足袋
のものが居ったので、斥候中ではあったがこれからの戦闘のことも考
え、貨物廠の係りに軍靴を呉れるよう交渉した。然し係官は夜も7時
を過ぎていたこともあったのか、所属部隊が違うと云って結局支給し
てくれなかった。

更に驚いて目を疑ったのは、ビルマの戦線で竹藪の遮蔽された中に
日本家屋のあることだった。しかも青畳、明り障子、襖、床の間付で
青い蚊帳も吊られていた。貨物廠の司令官の仮住いとのことであった。
前線の師団長とは雲泥の差があると思った。我々には軍靴一足も支給
してくれないのに、この様な贅沢な日々をビルマの戦場で送っている
とは厭きれ果てたものである。戦況によりこの貨物廠は数日後、自ら
火を放って倉庫の物資を焼く運命にあったと聞いている。此処にも日
本軍の体質の悪さが如実に表現されていた。

斥候に出て敵が近いか遠いか又居るか居ないか、現地のビルマ人の
行動をよく観ると判るものである。一般にビルマ人は人懐こい性格を
持っている。日本軍が強いと見ている間は日本人につき、英印軍が優
勢になってからは日本人を見ると逃げ出すようになった。それ故我々
は常日頃からビルマ人の行動はよく注意して観察していた。一晩中懸
命に歩いたがそれでも目的地のパヤガス付近に着いたのは夜が明けて
からであった。付近には現地人の姿は見られなかった。

暫く注意深く進んで行くと、ビルマ人が牛の群れを連れて水を探し
ているのに出会った。丁度乾季の末期で大抵の池は干上がっていて、
水のある池は少なかった。それでも小さい水溜りを見つけ、赤茶けた
水を牛に飲ませているところであった。敵が近くにいることは我々も
承知はしていたが、念のため牛飼いに「この部落に英軍はいるか。」
と尋ねたら、案に相違して「英軍は居ない。」と云う返事が返ってき
た。私は牛飼いに、英軍が居ないならお前も一緒に行こうと言って、
牛飼いを先に歩かして近くの部落に向かった。我々は部落には英印軍
が居るものと注意深く牛飼いの後を付けていった。

暫く行って林を出た途端、我々は英印軍の兵数名と鉢合わせに出会
った。予期していたことであるが余りにも突然であったので、お互い
に吃驚して敵味方双方後退した。我々は斥候であるのでの撃ち合うこ
とはしなかった。敵も余程驚いたと見えて我々に攻撃することはなか
った。部落とその後方には相当数の英印軍の部隊が居ることが確認さ
れた。丁度その頃我々の北側にて突如として英印軍からの猛烈な射撃
音が聞かれた。恐らく第2大隊から出されていた野村少尉の将校斥候
が敵に発見され、それで射撃されたものと思われた。敵の所在も確認
したので我々は聯隊本部を目指して、来た道を急ぎ引き返した。北側
の敵の射撃は執拗に続いていた。

各斥候の敵情報告により聯隊はパヤガス高地に陣地を配することに
なった。昭和20年4月半ば過ぎと記憶している。パヤガス高地に陣
地を作るといっても、重機の銃座と我々兵の各々の壕を掘るだけのこ
とである。乾季も末期で地面はカンカンに乾燥していて堅く、十字鍬
を振り打ち下ろしてもカーンと跳ね返へり、壕を掘ることは容易で
はなかった。この戦闘もこれまでのパターンと同じく迫撃砲の集中砲
撃で始まった。従来と違うのは始めから戦車部隊を繰り出してきて、
戦車を押しては退き、退いては押すこれを繰りかへし繰りかへして攻
撃をしてきた。そこでわが方として敵戦車がまた来るであろうと予想
される道路上にアンパン(対戦車用地雷)を埋めて、敵戦車を2~3
両擱座させたことが精一杯の戦果であった。           
  
しかし、この戦闘も彼我の戦力の差は歴然としており、聯隊はカロ
ー街道のピンヤンに転進のやむなきに至った。
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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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