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私のビルマ戦記(12)

引き続き、小安歸一さんの「私のビルマ戦記」第12回をお送りします。


4 一挺の重機を大事に

私たちは夜の明けるのを待って聯隊本部の在りかを捜しに行った。
3月6日の朝のことである。昨夜の戦闘の激しさを物語るように、聯
隊本部にも何やら落ち着きがなかった。すぐ菊池聯隊長に退院原隊復
帰の申告を行った。しかし、噂に聞いていたようなこともなく、「よ
く帰ってきてくれた。すぐ中隊に行き戦闘に参加せよ。」とのお言葉
であった。大隊長も、中隊長も初めての方々であった。大隊長は米沢
少佐、中隊長は服部中尉であった。中隊のメンバーも殆ど変わってい
た。ジャングル・マスターの田中兵長だけは相変わらず元気でおった。

肝心の重機は一挺だけが健在で残っていた。当時重火器は聯隊でも
数少なく、兵員が少ないせいもあるが、聯隊砲1門、大隊砲1~2門、
重機も各大隊に1挺で計3挺程度であった。これに軽機関銃と38式
小銃である。夫々の弾薬も数が知れていた。この様な装備で優勢なる
敵と戦うのであるから、その勝敗は自ずから明白であった。それでも
尚戦わねばならないところが問題である。

さしたる戦闘もなくその日は暮れた。夜になってから命令があり、
原隊復帰したばかりで地理や戦況不案内の私に将校斥候に出よとのこ
とで、すぐ下士官、兵を選抜して敵情偵察に出た。当時将校斥候に出
せる若手将校が如何に少なかったかを如実に表していた。その後も、
将校斥候にはよく使われていた。然し敵の陣地は5~6名の斥候でそ
う簡単に捜索できるような陣地ではない。鉄条網が2重3重に張り巡
ぐらされており、これを切断する鋏も無いしまた仮令鋏があったとし
ても電流やその他で連絡が取れるようになっていたと思うので、これ
を突破して前へ進むことは出来なかったと思う。斥候も2~3名の少
人数で本当に隠密裏に敵が居るか居ないか位の偵察なら有効と思われ
るが、敵情を仔細に偵察することは言うべくして、中々出来ることで
はなかった。日露戦争、日支事変当時ならいざ知らずである。

この様に敵の陣地は中々堅く、容易には近寄れるものではなかった。
またそれ以上突き進めば必ず死を招き、斥候本来の目的の達成が出来
ないことになる。当時の戦争でも斥候とは中々難しい任務であった。
命令する側は簡単に命令するが、これを行うのは大変な事であった。

翌3月7日は夜明けと共に敵迫撃砲の攻撃で始まった。トロントロ
ントロンと太鼓を叩くような発射音が聞こえると、間もなくしてヒュ
ルン、ヒュルンという音と同時に、ドカンドカンと破れるような弾着
音が響き渡った。これが1時間から1時間半も休み無く続く。迫撃砲
の恐ろしさはギザギザで先の尖った破片が身体に突き刺さることであ
った。滅多に直撃弾が当たることはないが、下手な鉄砲数撃ちや当た
るで中々怖いものである。この時私は遮蔽物が何もなかったので、大
きなサボテンの樹に隠れて迫撃砲の破片を防いでいた。その内に敵は
M3型の中戦車による砲撃を加えてきた。私たちは一挺の重機だけであ
るので、これの応戦は不利と考え後退しつつ地隙のある所まで下がっ
た。大掛かりな敵の攻勢に対して、味方の大隊、聯隊の戦闘指導も困
難となり、各隊ともかなり混乱状態に陥っていた。

私はこの戦闘で初めて敵が戦車攻撃を仕掛けてきたのを見た。制空
権を握っているから戦車攻撃は更にその威力を発揮するのである。日
本の玩具のような中戦車でなく、米国製の M3, M4型の戦車は型も大
きく前甲板は75ミリ以上あると聞いていた。日本の対戦車砲の速射
砲や機動砲では歯が立たず、聯隊砲でやっと擱座させることが出来た。
戦車砲は迫撃砲と異なり砲身が長いので、発射音が聞こえると同時に
弾着音がズシンズシンと重い響きが聞かれるので、これは更に怖いも
のであった。

地隙に難を逃れていた我々は、そっと地上を見るとすぐ近くの道路
上に、 M3の中戦車がありその後ろに歩兵部隊が随伴していた。我々
は地隙から出るに出られなくなり時の来るのを待っていた。その内に
第2大隊の聯隊本部との連絡兵が地隙に入ってきた。「戦闘は激しく
わが方は全面後退し、聯隊本部を探しているうちにここに来てしまっ
た。第2大隊も逐次後退を余儀なくされている。」とのことであった。
その連絡兵に色々と状況を聞いていて、皆その話に気をとられて前方
の警戒が疎かになっていた。突然、地隙の我々の前面に一人の英軍兵
士が現れ、手榴弾一発を投げアルミ製の皿のような鉄帽を落として慌
てて逃げ去った。この投げられた手榴弾の破片で連絡兵と他一名が負
傷した。連絡兵は腹部をもう一人は足をやられていた。

私は直ぐ図嚢からカロー野戦病院で頂いた皇后陛下よりの包帯を取
り出して傷口を巻いてやった。負傷した二人は直ぐ動くことは無理で
あったが、我々の居場所を敵に知られたので直ちに移動することにし
た。二人の兵は手持ちの水も少なかったので、各自の水筒から水を少
しずつ分けてやった。また自決用の手榴弾も持っていなかったのでこ
れも一発ずつ分かち与え、夜陰に乗じて下がるよう指示した。二人を
寝かせその上から携帯天幕を被せてあたかも戦死者のように見せかけ
た。この時分隊長から隊長である私に「重機を捨てて負傷者二人を連
れて下がりましょう。」という意見具申があった。私は即座にこの重
機は大隊に唯1挺の重機だぞ、これを大事にしなければとその意見を
入れなかった。

我々は近くに敵の戦車と歩兵部隊がいるので、1挺の重機を中心に
してできるだけ静かにして速やかに地隙から移動した。幸い敵方に察
知されること無く下がることができ、夕方近く大隊主力に合流するこ
とが出来た。戦闘の結果は明らかで、その夜のうちにキャウセに後退
せよとの命令がだされ、聯隊はまた南下したのであった。昼間地隙に
残してきた負傷兵二人のことが気になっていたが、その後二人とも無
事であることが分かった。1挺の重機を大事にしてよかったとつくず
く感じた。          (2005-1-16記)


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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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