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私のビルマ戦記(11)

引き続き、小安歸一さんの「私のビルマ戦記」第11回をお送りします。


3 戦傷病患者の生活―2

3)避暑地のカロー野戦病院

カローはビルマの避暑地として有名で、シャン高原の入り口に位置
した風光明媚な小都市である。松や桜の樹もあって、日本の風土に似
た地であった。野戦病院も中央に比較的大きな洋館が本部で、後は松
林の中に普通の家のような洋館の小病棟が点在していた。私は将校用
の外科の小病棟であった。

丁度冬の時期であったので、朝は霜が降りるほど寒かった。寝具は
粗末ではあったが布団が用意されていて落ち着いた病室であった。と
てもビルマの戦場にいるような気分ではなかった。それにこの野戦病
院には日赤出身の看護婦さんがいたのが、私の目には新鮮に映った。
ビルマに入って日本女性にお目にかかったのは、前線に赴く途中メイ
ミョウの偕行社で勤務していた、女学校を卒業したばかりの若い女性
数人に会っただけであった。

我々ビルマの第1線で戦争を経験した将兵は、おそらく全員が虱の
お世話になっていたことと思う。後方におれば入浴、水浴が自由にで
きるが、第1線は思うに任せない。それにビルマ人の民家に一晩ご厄
介になると、必ずといっていいほど虱のお土産を貰ってきた。一人が
虱を貰って来ると同居している者に、次から次へと移って全員が虱の
お世話になるのである。一度虱が移るとこれが絶滅は第1線では困難
であった。第1線で夜明けとともに頭上には敵の偵察機が、迫撃砲の
弾着修正のためブルンブルンと舞い始める、我々はその下で恐れるこ
ともなく襦袢を脱ぎ、その縫い目に群生している虱を一匹一匹両親指
の爪で潰すのが日課の一つであった。

最初は虱を潰すのが厭で一匹抓んではではこれを捨てたものである。
慣れてくるとそれが何ともなくなり、爪を虱の吸った血で赤くしなが
ら潰したものである。それでも虱を絶滅することは出来ず、襦袢には
白く光る虱の卵が沢山ついていた。戦場における虱談義を終る。

さて、カローの病院に入院して間もなく、担当の日赤看護婦さんが
私の虱に気が付いて、「持っている衣類を全部出し下さい、熱湯で煮
沸して虱を全部退治してあげます。」と、云ってくれた。寒い時期で
あったが布団があったのでその間寝ていることにして、衣類全部を看
護婦さんに頼んで虱退治をしてもらった。お陰様で虱のお世話になら
ず安眠することが出来た。

その日赤の看護婦さんは長野県出身で姓を御子柴さんということだ
けは記憶しているが、無事内地に帰還されたかどうかは知る由も無い。
(この項が別記した「縁とは不思議なもの」の原点となった。まさか
これを書いた時にはあのようなことが起こるとは思ってもいなかった、
しかし出身県と姓を書いたのであるから、何か淡い期待はあったので
はなかろうか。)

カローの桜は12月末頃から花が咲き始め、日本の桜のように花弁
が散るのではなく、花全体が散るのには驚いた。樹も樹皮も枝も花も
見た目には、全く日本の桜と変わりないのにと思った。カローの野戦
病院でちょうど昭和20年の元旦を、迎えた。正月料理に雑煮や餅が
出されたかどうかは忘れたが、戦傷患者には皇后陛下が御自らお巻き
になられた包帯を、病院から下賜されたことは憶えている。病院で戦
傷やマラリアの治療は受けていたが、1月の10日頃シャン州の州都
タウンジーにある兵站病院に後送されることになった。ビルマに3年
余生活したが、カローのこの3週間が最も住み心地がよかったと思う。

4)タウンジー兵站病院とインレ湖温泉療養所

当時ビルマ全土の制空権は完全に敵側にあって、後方の道路、要衝
などは B- 25(街道荒しと呼ばれていた)を主力とする敵航空部隊
による攻撃を受けていた。それ故患者の輸送も専ら夜間トラックで行
われていた。その夜も10時過ぎごろカローの病院を出発した。南国
ビルマでもシャン州は高原で、1月は霜も降りる寒さであった。我々
は酷暑の平地で戦闘していたので、襦袢(半袖開襟シャツ)一枚着の
み着のままであった。トラックの走る速さも加わって、その寒さの身
に沁みたこと後まで忘れることはなかった。やっと携帯天幕で身を覆
って寒さを凌ぎ、夜明け前にタウンジーの病院に到着した。この夜は
幸いなことに敵の空襲は無かった。ちなみに、この道路はタイ国のチ
ェンマイに通じていて、終戦前から終戦時にかけてビルマの戦傷病患
者、野戦病院等はこの道路つたいに下がって、大勢の人々が助かった
街道であった。

タウンジー病院は兵站病院としては最後方の病院だけあって、規模
は大きく患者も沢山収容されていたようであった。私は右手甲の負傷
について綿密に色々と診察を受けたが、結論として野戦では手術が困
難なことと、手術後の結果が危ぶまれるということで見合わせとなっ
て、もっぱらマラリアの治療に力がいれられた。私の隣の病床に入院
してきた准尉さんは、健康そうで病人らしくなかったが痔が悪いとの
ことであった。早速手術してきたのだろう麻酔が切れたのか、一晩中
大きな呻き声をあげていた。然しそれから4~5日たつとさっと退院
していった。私は10日ほどで退院が決まったが総合的に体力が落ち
ているので、体力を回復することが必要として近くのインレ湖畔の温
泉療養所に送られた。此処は退院患者の前線復帰のための訓練と、疥
癬患者のための硫黄泉療養とを兼ね備えた温泉療養所であった。

私はここで十分体力を回復させて前線に復帰したいと思った。丁度
退院前に病院で俸給3ヶ月分500ルピー(軍票で円と同価値)あま
りを貰った。ビルマに来て初めての俸給であった。私は療養所で給与
される食事のほかに、その金で栄養になる食べ物を現地人から買い求
めて、これを食べて体力の増進に努めた。体重も入院中は50キロそ
こそこであったのが、半月もすると57キロにもなり段々と体力も付
いてくるのがわかった。しかしこの様な生活が何時までも続くとは思
っていなかった。毎日温泉に入り限られてはいるが好きなものを食べ、
体力をつけるため運動するのが日課である。第1線の戦場では考えら
れないことである。

2月の中頃だったと思うが、聯隊本部付の松本軍医が後方の野戦病
院・兵站病院を回って入院患者の状況を調査に来られた。インレ湖の
温泉療養所にも来られた。調査とは名目で事実は戦争離脱者(遊兵)
の第1線への復帰の督戦隊の任務を持っておられた。

私も温泉療養所にて約1ヶ月療養して、重機を担げる体力は十分つ
いたと確信して此処を退所することにした。只残念なことは、退所間
際に私自身疥癬に感染していたことである。当時疥癬は日本軍には効
く薬が無く、かかると痒さとその膿みで悩まされた。

第1線を離れてから約3ヶ月半が経っていた。後方に下がっている
と、ビルマ全土で戦闘がどのように進展しているのか、私たちには皆
目分からなかった。ただ優勢なる敵の砲火に押されて、わが軍は転進
に次ぐ転進でイラワジ河畔まで後退していることは明らかであった。
タウンジー兵站病院等の退院患者を集めて、トラックに乗りインレ湖
畔を出発した。一行はカロー、メークテーラなどを経てイラワジ河目
指して急行した。

途中例によって街道荒らしの敵機の銃爆撃の洗礼を幾度となく受け
た。噂によると新聯隊長の菊池大佐は、退院の将校が聯隊に復帰する
と、「軍人に賜わりたる勅語」を全文奉唱させるということであった。
またこれを間違って奉唱すると、鞭で殴ると聞いていた。その他新聯
隊長に関する噂は、後方まで響きわたっていた。

目的地であるイラワジ河の南に位置するイワボウに到着したのが3
月5日の夜半で、丁度敵味方の区別がつかないほどの激戦中で、砲火
は昼を欺かんばかりの明るさであった。とても聯隊本部に近寄れない
凄まじい状況であった。この様に戦場の後方と前線では、極楽と地獄
の違いよりもっともっと大きな差があつたのではなかろうか。   
      (2005-1-14記)

ピンウエの戦闘で右手甲に負傷し、入院中も各病院で診察を受けた
が、野戦での手術の困難とその後の成果の見透しがたたないことで、
取りやめていた。日本に帰国して仕事で小樽に出張していた時に、右
手甲が痛み出し腫れてきた。小樽市立病院の外科に行き診察を受けて、
早速レントゲン写真を撮った。小さい破片が4個位あり、医師に帰京
したら慶応病院で手術するよう薦められた。然し破片は今もまだ入っ
ている。昭和31年8月17日のことである。
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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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