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私のビルマ戦記(9)

引き続き、小安歸一さんの「私のビルマ戦記」第9回をお送りします。

2 ピンウエの戦闘で負傷

ナンシャンの戦闘の後転進した我が聯隊は、パーパン、トンロンの
戦闘を経て19年11月初めに師団命令により、ピンウエの死守を命
ぜられていた。

敵の攻撃は相変わらずで、夜明けとともに我々の頭上に偵察機(弾
着修正)がブルンブルンと飛び回り、その連絡により迫撃砲の発射音
がトロントロンと太鼓叩くような音が聞こえて暫くすると、今度は砲
弾のヒューンヒユーンと音をたてながら我々の身近に迫った。何とも
いえない不気味な音である。これが日暮れまで間断なく続くのである。
まともな神経ではとてもこれに耐えることは出来ない。迫撃砲の恐ろ
しさはこれだけではない。砲弾が着地して破裂する時の破裂音がまた
凄まじい。また破裂した破片は大小様々で四方八方に広く飛び散り、
破片の先端が不規則に鋭利に鋭く尖っているのが特徴である。これ等
が被服を突き抜けて人間の身体に食い込むのであるから、即死する致
命傷もあるが迫撃砲破片創といって傷口が化膿する厄介な大怪我にな
る。

11月10日頃戦線は相変わらず膠着状態であり、その上武器弾薬、
食糧の後方からの補給もよくなく、且つ又師団からの命令もあったの
で岡田聯隊長はこの地を死守することに決心を固められた。そして各
隊に「聯隊はここにて玉砕を覚悟して戦う。壕は出来るだけ深く堀り、
軍事機密となる書類等は処分し、各人最後の内地への便りをしたため
よ。」との命令が伝達された。

各隊各兵ともいよいよこれが最後の戦闘になるのかと夫々覚悟を決
めた。私たちも書類を集めて処分し、各自がそれぞれタコ壺なる壕を
深く掘った。その後、日本の妻子親兄弟に宛てて手紙を書き後方に下
がる人にこれを託した。第1戦の将兵は自分の身辺が片付くと、覚悟
が出来たせいか比較的皆落ち着いていた。師団司令部では岡田聯隊長
の決意に対して、未だその時期ではない弾薬も食糧も出来るだけ補給
するから、玉砕は見合わせよと武田師団長自ら岡田聯隊長を慰留に来
られた。その日は師団長閣下のお土産ということで、「汁粉」や「ぜ
んざい」をたらふく食べた。そのうちに命令が変更になって、ピンウ
エの敵陣地に聯隊が攻撃することとなって、11月13日の夜半より
各大隊ごとに行動を起こすこととなった。

今までは敵の攻撃に対して守備にばかり回っていたが、今度は日本
軍より敵に対して攻撃をするのである。わが第3機関銃中隊も全員と
いっても重機2挺の1個小隊分しかないが、そのうちから精鋭1個分
隊、すなわち重機1挺の編成で出動ということになった。中隊長は高
野中尉、小隊長が私、他に中隊付で山岡曹長、分隊長が勢田伍長であ
った。私は本来なら四番射手は田中兵長にすべきところを今度の戦闘
の容易ならざるを感じ、田中兵長を予備として温存して、細見上等兵
を四番射手に抜擢し、二番銃手に田栗兵長を据えた。

夜半から行動を開始して隠密裏にジャングルの中の敵陣に接近した。
昼間に、師団長のお土産としていただいた「汁粉」を、久し振りに食
べたことと、これが今生の食い納めと思い食べ過ぎのせいもあり、行
軍中にしばしば下痢に悩まされた者が多かった。しかし、夜明け前に
は敵陣地付近に到着していなければならないので、深夜の闇のジャン
グルを北へ北へと急いだ。夜明け前に目的地である敵陣地付近に到着
することが出来た。

確か11月14日午前6時を期して第3大隊は一斉に敵陣地に向か
って前進を開始した。わが第3機中隊は第11中隊の後方に位置して
進んだが、ジャングルは比較的密林が厚く、我々が進むことの出来る
道は細いのが一条のみであった。それで第11中隊は市原小隊長を先
頭に、10数名の兵が一列になって前進していた。私は第11中隊の
すぐ後ろから進んでいたので、この隊形で進むことの危険を感じ、私
は11中隊の兵に大きな声で注意を喚起した。「一列になって前進す
ると1発の弾で数珠繋ぎにやられるから散開して前進せー!」と、
何度も大声を出して指示した。

しかしジャングルには細い一本道があるだけで、兵隊達はそれでも
小隊長に従って一列のまま前進していた。丁度第11中隊の10数名
の将兵が凹地になったところを一列になって通過中、突如として前方
の敵陣からチェコの軽機関銃の猛烈な射撃を受けた。私がアッという
間もなく、眼前に市原小隊長をはじめとする第11中隊の隊員殆どが
将棋倒しのようにひっくり返るのを見た。私も反射的にその瞬間身を
伏せていた。(戦没者名簿見るとこのとき戦死したのは市原少尉以下
11名の将兵の名が載っている。合掌)

しかし、私もあとで気が付いたのであるが、私の右腕は敵の弾の破
片で数ヶ所傷付けられていた。我々は夜明けと同時に敵の背後を衝い
たのであるが、我々より先に敵がチェコの軽機で射撃して来たのには
驚いた。尤も敵陣地は蜂の巣陣地といって円形で四方八方何処から攻
撃を受けても対応が出来る陣地になっていた。(市原少尉は一年志願
の出身召集までは一般市民、私も戦争未経験、敵を背後から突くにし
てももっと策を練らねばと思った。)

第11中隊がほとんど全滅になってしまったので、私は重機で直接
攻撃をするしかないと判断し、百米位前方の敵陣を射撃して小銃部隊
の攻撃を容易ならしめようとした。まず重機を据え、目標と距離を示
し、撃ち方始めを命じた。

わが重機もダダッダダッと順調に発射音を響かせていたが、まだ一
連も撃ちきらないうちに、射撃していた細見上等兵が敵のチェコの軽
機の弾を顔面に受けた。鼻と口からドット血を噴きだし彼の鉄帽が重
機の銃身にガツンと当たり一瞬にして倒れた。私はそれを見て大声で
「田中!田中!」と呼び、四番射手の交替を命じた。田中兵長はすぐ
さま重機に近付いて倒れた細見上等兵の両足をつかんでグウイと後に
引くなり、直ちに重機の射撃を開始した。

何かしら今度の戦闘は編成時から予感があったようで、細見上等兵
には申し訳ない感じがしたが戦場では私心が無く、細見上等兵も自ら
進んで名誉の四番射手を希望したものであった。この戦闘では二番銃
手の田栗兵長も重機に当たった敵チェコの跳弾で膝をやられ交替した。
暫くして重機を敵前近くまで陣地変換して攻撃を続けたが、敵のチェ
コ軽機による射撃も中々で、友軍の受けた損害は大きかった。高野中
隊長も私の近くに居って戦況を見ていたが、小銃隊がやられて放り投
げになっている小銃を拾ってそれで敵を射撃していた。戦闘の状況も
膠着状態になっていたので、私も小銃を拾って射撃しようと思い、近
くにある小銃をとろうとした瞬間、頭にガアーンという猛烈な衝撃を
受けそのまま倒れてしまった。

どれだけの時間そこで気を失って倒れていたか分からない。気が付
いたときには、右隣にあった重機も、中隊長も、他の兵隊も誰一人お
らず私一人だけ取り残されていた。ただ重機がはるか右方で射撃して
いる音が聞こえた。頭が痛むので鉄帽をとってみると、鉄帽の前方に
弾の入った痕が二つあって鉄帽の後方は大きく破れていた。これでよ
く助かったものだと思った。あのまま気を失い続けていれば当然死に
至っていたことだろう。勿論亡骸は其の儘である。

ここでどのように行動するかを考えた。敵前数十米である。動けば
やられる。どうやって味方の陣地に行くか、横に突っ走れば必ずやら
れる。かといって敵に背を向けて下がるわけには行かない。15~6
米後方に身を隠す地隙があったので、そこまで何としても下がらねば
ならない。結局大胆にも敵陣を睨みながら足を前にだし、両手で身体
を支えながら後ずさりをして後退した。地隙まで今少しというところ
で、敵弾が一発ビシッと私の右大腿部をかすめた。その瞬間私は痛さ
も忘れて飛ぶように走って地隙に身を隠していた。そこで身の安全を
確認してから跨(ズボン)と跨下(ズボン下)を破って三角巾で擦過
した傷口をつつんで仮治療をした。夢中だったせいか脚に余り痛みは
感じなかった。

その後地隙沿いに3機の重機の陣地に急いでいった。3機の指揮は
高野中隊長、山岡曹長が取っていた。敵陣は前にも書いたとおり蜂の
巣陣地になっていて、東西南北何れの方向から攻撃されても防御でき
るようになっていた。その上我に勝る銃砲火器弾薬があって、92式
重機や96式軽機の遠く及ぶところではなかった。

早朝からの戦闘でどれだけ時間が経ったのやら、食事もせずに戦い
続けていた。通常の戦闘であれば重機が援護射撃すれと、敵が沈黙す
る間に歩兵部隊が突撃を敢行するのであるが、重機を撃った位では敵
は沈黙せず、歩兵部隊の突撃も中々実施し難い状況にあった。従来日
本軍がとっていた戦略戦術では通用しない敵との力の差を感じた。そ
のうちに私の右隣に居った高野中隊長に、敵の射撃した跳弾が右前膊
の中ごろを横に貫通した。出血は多量で顔色も悪くなった。丁度そば
に居った原田上等兵が三角巾で仮包帯をし、右上膊で止血をして大隊
本部の軍医のところまで下げた。

その後も敵味方の撃ち合いは激しく行われこの戦闘は何時終るとも
なく至近距離で続けられた。そのうちに私もまた右大腿部に盲貫銃創
をうけて歩行困難となり、後事を山岡曹長に託して大隊本部に下がり
軍医の治療を受けた。本部には負傷した将兵が多く軍医や看護兵の手
当てをうけていた。先ほど負傷した高野中隊長は重傷であったので、
原田上等兵が付き添って陽のあるうちに聯隊本部を目指して下がった
とのことであった。私も大隊本部で治療を受けた後、10数名の負傷
した将兵(患者)を引率して、陽のあるうちに出発して聯隊本部まで
下がるよう大隊長の命を受け下がることとした。 
 
北ビルマのこの地方の地図は持っていないので、磁石を頼りに先ず
敵中から離れるため、進路を西にとりそれから南下することにした。
私は右大腿部をやられて歩行は困難であったが、軍刀を杖代わりに足
の長さの歩幅だけ一歩一歩、長時間かけてゆっくり歩くことは出来た。
然しジャングルの中であるので大木が横倒しになっているところもあ
って、この時は左右どちらの足から先に出せば痛くないか考え考え歩
いた。この逃避行で注意したのは先ず敵に発見されないことであり、
次に一番困ったことは第10中隊の増田少尉が腹部盲貫銃創で、止血
が出来なくて歩くとポタッポタッと血がたれその上痛みも相当なもの
だったと思う。若く元気な当番兵1名を連れて下がってきたのである
が、歩く速さははやいが連続しての歩行が続かなかった。一行は予定
の距離も行軍しないうちに太陽は沈み暗くなったので、やむを得ず敵
中に夜営することになった。ジャングルの中、しかも敵中で各自傷つ
いた身体を横たえても、ゆっくりと休むことは出来なかったはずであ
る。それでも昨夜からの行軍に続く激戦で疲れていたせいもあって、
何時の間にか寝てしまっていた。

それから何時間たったであろうか。バアーンという爆発音と同時に、
被って寝ていた携帯天幕の上にバラバラと破片と土塊が飛び散ってき
た。敵の襲撃を受けたのかと吃驚して跳び起きたところ、増田少尉の
当番兵が走ってきて「隊長が手榴弾で自爆されました。」と、報告し
た。腹部の盲貫の痛みは耐え難いと聞いていたが、自分で自分の身を
始末しなければならなかった増田少尉の気持ちを考えると、胸が締め
付けられる思いがした。合掌 

夜明けには未だ少し時間があったが、敵に察しられてもまずいと思
い、早速患者を集合させ直ちに出発して聯隊本部へ向かって行動した。
幸いその後何事もなく一行は11月15日太陽がとっぷり暮れてから
聯隊本部に着くことが出来た。聯隊の主力は昨夕の反撃を中止して基
地ピンウエに帰還していた。
(2005-1-11記)   
 
この戦闘で私は鉄帽に2発の銃弾を受けながら奇跡にも助かった。
弾が当たった瞬間は大変な衝撃を受け暫く気を失っていた。通常鉄帽
に弾が当たると、弾は鉄帽の後方の壁にまた当たって回転して頭の後
ろを貫通して、頭の前へ抜けて即死するものだそうだ。私は鉄帽をか
ぶる時何時も浅くかぶっていたので、鉄帽の上の部分は空間があった
と思う。それで頭の上部はかすり傷があり血も流れていたが、当たっ
た弾は抵抗が少なく鉄帽の後ろの壁を難なく突きぬけて、私の命は救
われたものと思う。鉄帽の後部はそれは見事に割れていた。私はその
後も戦闘が続いたのでまたその鉄帽をかぶって戦った。聯隊本部に無
事帰還して後方に下がった時、これは尊い記念になると思い他の装具
とともに携行したが、歩行困難な負傷で鉄帽は重かったので途中田圃
の中に捨てた。
(2005-1-12記)

後日のことになるが、玉砕するというこ とで将兵は皆内地の家族
宛最後の便りを書いてこれを送った。私も手紙を書いてお袋さんに送
った。その時前から聞いていたことであるが、戦地から手紙よりお金
を送ると必ず届くということであった。当時手紙のような書類は輸送
船若しくは飛行機で送られたと思う。それに引き換えお金は野戦郵便
局から、内地の郵便局へ直接無線で送られると思うので速くしかも確
実であったのだろう。それで私はその時手元にあったお金150ルピ
ー(円と同じ)をお袋さん宛に送金を頼んだ。内地に復員してこのこ
とをお袋さんに話したら、郵便貯金通帳を持ってきて私に見せてくれ
た。貯金通帳にはちゃんと150円が入金されていた。お袋さんはそ
れ以前に送ったお金も、この150円も使うことなく大切にそのまま
貯金していた。昭和21年3月には新円切り替えになっていた。お袋
さんは亡くなるまでこのお金を使うことは無かった。私事で大変失礼
をしました。お許し下さい。
(2005-1-15記)


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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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