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私のビルマ戦記(8)

引き続き、小安歸一さんの「私のビルマ戦記」第8回をお送りします。

  私のビルマ戦記

昭和55年4月に刊行された128ビルマ会編纂の「私たちのビルマ
戦記」に記載されている私の戦記を基に、今回改めて稿を起こし「私
のビルマ戦記」とする。

1 モーハンで聯隊(歩兵第128聯隊)に着任

ホピンの師団司令部を後にした私たち4名の仲間は疲れきった身体
に鞭打って聯隊本部のあるモーハンに向かった。モーハンの部落に入
り川があり水流も大したことは無いと思い、軽く渉れると思ったのに
私は足を水流にとられ転んでしまった。これを見ても当時相当身体自
体衰弱していたと思った。

やっとの思いで聯隊本部について、私たちは岡田聯隊長に着任の申
告をすることが出来た。聯隊長はこの厳しいビルマの戦場にありなが
ら、温顔で暖かい気持ちで私たちを迎え入れて、ご苦労であるが身体
に気をつけて軍務に精励するよう訓示された。当時(19年8月~10
月)聯隊はモガウン方面の戦闘で戦力の大半を失い、戦力の拡充と次
の戦闘に備え掩蓋壕の構築中であった。

私は第3大隊第3機関銃中隊に配属され小隊長をすることになった。
大隊長は士官学校出の世良大尉、軍医さんが年配の古畑見習士官が居
られた。この軍医さんにはモーハンで特別にお世話になった。毎日毎
日ビタミン B の注射をうって頂いた。栄養失調だったのであろう、
現在元気で居られるのも軍医さんのお陰と感謝している。古畑軍医さ
んは現在96歳位まだまだお元気で毎年京都の慰霊祭には最高年齢で
参加されておられる。

第3機関銃中隊は中隊長高野中尉で将校は私を含め2名、下士官は
山岡曹長1名、兵隊さんは田中兵長、細見・原田上等兵等数名を数え
るのみであった。肝心の92式重機関銃は3挺あったが、これを担ぐ
兵員が居ないので2挺だけ残し1個小隊(2個分隊)の編成をした。
弾薬は弾薬箱(30発 X20連)数個だけ、搬送用の駄馬(日本馬)は
既に全滅、94式眼鏡照準具はレンズに雲がかかり使用不能の状態で
あった。通常1個中隊は4個小隊、8個分隊、重機関銃8挺、駄馬1
6頭等から成っている。このように私が聯隊に着任した時には既に、
装備抜群な英印軍と対等に戦闘が出来る状態にはなかったのである。

9月に入って兵員の補充を受けた。先ず昭和18年徴集の現役兵、
京都の伏見の原隊で第1期の教育訓練を受け検閲を終ったばかりのバ
リバリの新兵さんである。6~7名位来たと思う。然し1期の検閲を
受けただけの新兵さんには、ビルマは余りにも過酷な戦場であった。
私の頭の中に残っている、市川・湊・小林さんたちも夜間の転進(実
は退却)中に落伍したり戦死したりして殆どの方は日本に帰還されて
いない。訓練不十分の新兵を第1線に送るなど旧日本軍のお粗末さが
ここにも出されている。

また9月の半ば頃には1年志願の少尉を含む将校と下士官・兵約7
00名の多数の補充を受けた。この様に兵員の補充と食糧補充は若干
あったものの、兵器・弾薬・医薬品・被服の補充は全くといっていい
ほど無かったのである。兵員が補充されたことにより掩蓋壕の工事は
各隊とも順調に進んだようであった。然し雨季の末期であり内地から
の長旅の疲れや栄養不足による、脚気やマラリアによる体力の衰え等
が原因で戦病死するものが増えてきた。ビルマに来て一度も戦闘をし
ない内に、戦病死するとは甚だもって残念なことであろうと思われた。
私の隊でも補充で来られた比較的年配の長 弥太郎さんが戦病死され
た。亡骸は陣地の近くに丁重に埋葬され墓標も立てた。遺骨は小指を
切り落としてこれを焼き、人事担当の下士官がこれを所持した。戦場
でもここは陣地であるのでこの様に遺骨を残すことが出来たが、負け
戦では戦場整理も出来ないので、ビルマでは残念なことではあるが戦
死された亡骸はそのままとされた。これが負け戦の現実の姿である。
また遺骨を残したとしても、それを所持した者が内地まで持ち帰るこ
とは困難なことと思われる。

モーハンの陣地構築には約2ヶ月かかった。丁度雨季で敵機の襲撃
も比較的少なく、ジャングルの中に中隊毎竹とアンペラの仮設の住ま
いを作りそこに寝泊りしていた。当時米は支給されていたと思うが、
その他は現地で求めたジャングル野菜と称する野草と岩塩が主で、時
たま現地人から使い果たされた瘠せた牛を購入してそれを射殺してそ
の肉や肝を食べてこともあった。また蚊が多く夜は安眠を妨げられた。
個人用の蚊帳は無く頭だけにかぶる蚊帳ではどうにも成らなかった。
従ってマラリアの熱病は殆ど全員がかかり、発熱する患者が多かった。
熱帯地の戦争経験の無い日本軍はこの様な事態に対処する研究はなん
ら為されていなかったのではなかろうか。大和魂だけあれば戦争には
勝てると本当に考えていたのでしょうか。内地からまっさらな身体で
何等の訓練も受けずに、この悪疫瘴癘の地ビルマに来て、この悪条件
の元で過酷な作業を続ければ病気になって当然と思う。ビルマで積極
的に戦争を指導した軍首脳達は、このような第1線の実状を把握して
いたのであろうか甚だ疑問である。

敵は優勢な航空機(主として B ―25, P ―38)によって完全に制
空権を握っていたし、陸上部隊も強力な迫撃砲部隊に支援されていた
ので中々侮り難い兵力を持っていた。10月25、6日頃から我が方
に対する敵の攻撃は熾烈と成ってきた。然し、2ヶ月余りもかかって
構築した掩蓋壕によって、守備していたのであるから、相当期間は堅
持することが出来ると思っていた。ところが、戦闘が開始されてから
2日目には、歩兵第119聯隊側から撃ち崩され、私たちは緒戦を戦
わずして後退せざるをえない状況になってきた。折角構築した陣地で
はあったが残念ながらここを捨てて夜陰に乗じて後退した。

私としては初めての戦闘で重機の発射音を聞かずに転進したことは、
誠にもって心残りであった。京都の原隊で第1期の検閲を受けた現役
兵にとっても初めての戦闘である。戦争未経験の下級指揮官と戦争未
経験の初年兵何か失敗があって当然。思いもしないことがやられてい
た。モーハンの陣地を撤退したのは夕刻、撤退など考えていなかった
ので準備不十分のまま夜間行軍となった。翌朝ナンシャン川岸の新陣
地についた。早速兵員・武器・弾薬の点検をしたところ弾薬箱が1箱
足りなかった。事情を調べたところ現役兵の1人が夜行軍の途中余り
にも重すぎたので道路わきに捨てたことが判った。武器弾薬の後方か
らの補給の無い現状では大変なことである。戦地でこの様なことが起
こることを想像していなかったが、起きたことを責めるより、事後の
方策を考えた。事実弾薬箱は其の儘担ぐことは困難である。従って弾
薬箱から保弾板(弾丸30発)を取り出し弾薬箱は捨て、保弾板を各
兵に2~3連ずつ携帯天幕に包んで持たせることにした。予期せぬこ
とが起こるものである。

さて、戦闘は川をはさみ敵と対峙していたが、敵は優勢な迫撃砲に
よる砲攻撃を主としていた。それでも川の対岸まで敵兵の姿は見えて
いた。我々は重機による攻撃と、手榴弾の投擲、小銃での射撃、擲弾
筒による攻撃を続けながら守備していた。然し戦闘は夕刻まで膠着状
態が続いた。

この戦闘で我々第3機中隊の左翼に布陣していた第10中隊の小隊
長の士官学校出の八旗少尉が、壮烈な戦死を遂げられた。着任後間も
なくでもあり、惜しい人物を亡くした。時は昭和19年10月29日
であった。夜になって転進命令が出たので、ジャングルの中を後方に
退いた。夜のジャングルは全くの闇であった。戦争経験の無い私は判
断に困ったが、部下に先導者から離れることなく急がずとも着いて行
くことを指示した。昼でも歩行困難なジャングルを、30キロもある
重機の銃身・脚を担いで行軍するのであるから余計大変なことであっ
た。この様な状況の中運悪くも私は右足首を捻挫してしまった。注意
して歩いていたのであるが、捻挫しては中隊と行動を共にすることは
出来ない。足の状況を診て段々腫れが来ると思ったが、処置の仕様が
無いので靴は脱がずにそのままゆっくり歩行を続けることにした。敵
に見つかれば手榴弾で自爆するか捕虜になるかである。死に物狂いで
歩くしかないのである。只でさえ歩行困難な夜のジャングルの中、腹
を決めて歩くことにした。一晩中何とか歩き続けて夜明け頃やっと中
隊に追いつくことが出来た。
(2005-1-9記)
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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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