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私のビルマ戦記(6)

小安歸一さんの「私のビルマ戦記」第6回を掲載します。

生と死の分かれ目

1 はじめに

今まで書いた「私のビルマ戦記」はメールで送ったものを纏めたも
ので、一部実戦記録とビルマにおける戦い方に対する私なりの考え方
と、一般の戦争というものに対する私見を述べさせて頂いたものであ
る。これから述べるところの記述は、私が実際に経験した事を基にし
てその時その時の私の心に感じたことを、今思い起こして書き綴って
見たいと思う。

何せ60年前のことを思い起こしてボツボツとパソコンを叩いて文
章にするのであるから、如何なものが纏まり出来上がることでしょう。
表題にした「生と死の分かれ目」は、軍の命令、戦場における指揮官
の命令が、それを受けるものにとっての人間に、それから先の運命に
大きく作用する重大なことと感じたのでつけたものである。

私が軍隊の入隊以来から、ビルマの第一戦部隊である京都伏見の歩
兵第128聯隊第3機関銃中隊に着任するまでの間に経験した「生と
死の分かれ目」について述べてある。

2 ビルマ方面軍に転属

東京青山にあった東部第7部隊 ( 近衛歩兵第4聯隊補充隊 ) に赤
紙(臨時召集)で入隊したのが、東京に初空襲があった年の昭和17
年10月1日であった。

機関銃中隊に配属された星一つの新兵さんは、来る日も来る日も厩
当番で朝早くから馬の寝藁干しと馬の手入れ ( 毛付け ) で、馬の小
便の臭いが身体に沁み付いたものです。手の甲はヒビ・アカギレで可
哀そうな姿をご想像下さい。

その後甲種兵科幹部候補生として前橋陸軍予備士官学校を18年1
2月25日卒業、兵科見習士官としてシンガポール南方軍総司令部参
謀部付にて、19年1月20日輸送船三池丸 ( 郵船貨客船 ) にて門
司港を出港しシンガポールに向かった。後で分かったことであるが偶
然にもこの輸送船三池丸には、当時の安兵団師団長河野中将や敦賀聯
隊の聯隊長浅野大佐が乗っておられた。不思議な縁であると後で感じ
たものである。19年1月29日正午昭南港 ( シンガポール ) に無
事到着した。丸9日間の船旅であったが、途中台湾海峡で敵潜水艦の
魚雷襲撃を受けた時は7隻の船団が散り散りとなり、マニラに向かっ
た5隻は途中撃沈されたと聞いている。

その後私は、昭南防衛司令部 ( 第18独立守備隊司令部 ) に転属
し、現地義勇軍教育のため蘭領リオ群島 ( 現在インドネシア領シン
ガポールの南の島々 ) のビンタン島タンジョンピナンに赴任した。
当時のシンガポールや島での生活は戦争は何処でやっているのかとい
うのんびりしたものであった。私はこの様な生活は長く続くものでは
ないと思い心身の鍛錬には気を配っていた。

4月30日運命の転属命令が来たのである。第7方面軍 ( 南方総
軍の後シンガポールに新設土肥原大将が軍司令官 ) に転属を命ずる。
嗚呼これで運命のビルマ行が決まったと思った。と言うのも当時巷間
聞こえて来るのは、ビルマ方面の状況が悪い悪いという情報ばかりで
あったのである。今思うとこの時期はインパール作戦が期待通りの成
果が揚がらず、むしろ後退気味の態勢にあったのである。

私は急ぎ義勇隊の残務を整理しシンガポールの防衛司令部に向かっ
た。司令官閣下に転属の申告を済まし、直ちに第7方面軍司令部に赴
いた。ここであらためて第7方面軍司令部よりビルマ方面軍司令部へ
の転属命令が出されたのである。私の予想通りの結果となったのであ
る。私と同時にビルマ方面軍に転属になった仲間は、私も含めて前橋
陸軍予備士校出身5名、仙台陸軍予備士校出身1名の6名であった。

3 いざビルマへ(ビルマは遠かった)

軍司令部を後にした私たちはシンガポール市内のオーチャロードに
ある兵站ホテルの富士屋ホテルに、出立命令があるまで滞在すること
となった。将校用のホテルであるが、最下位である見習士官たる私た
ちはエレベーターも無い最上階7階の部屋が割り当てられた。常夏の
シンガポールで1階から7階まで足で1日数回上り下りすることは大
変な苦労であった。特に夜遅く酩酊の態で階段を1歩1歩上がる姿を
ご想像下さい。宿泊料は1日3食付サービス料のみが70銭であった
ので、いたし方のないことと諦めて我慢することにした。

私達のビルマ国ラングーンまでの行程は軍司令部で受領した出張命
令書に記載された通り行動しなければならず、勝手に変更は出来ない
ものであった。富士屋ホテル滞在は3週間を超えるものとなった。幸
いなことに任官用の軍装費として5百円が軍から支給されたのでお金
には困らなかった。しかし毎日毎日やることも無く1日を過ごすこと
は大変な苦労であった。

漸く19年5月25日に昭南駅集合の命が下りた。シンガポールを
起点としてジョホール・クアラルンプール・イポーなどマレー半島を
縦断して、タイ国のクラ地峡チュンポーンを経由してバンコク行きの
国際列車に便乗した。途中ペナン島の入り口の駅にて燃料補給のため
長い時間停車し、タイ国のチュンポーンで下車したのは3日目か4日
目であったと記憶している。

私たちはチュンポーンから日本軍の鉄道部隊があらたに敷設した鉄
道を利用して、ビルマ国境のカオファージという町行く予定であった。
ところが列車は不通で何時乗れるか分からないと云うので、取り敢え
ずチュンポーンの兵站宿舎にお世話になることにした。兵站宿舎とは
名ばかりで、竹とアンペラの床で屋根はニッパの葉で作られた大変お
粗末なものであった。まさかここに20日以上もお世話になるとは思
ってもいなかつた。

タイ国は独立国である、従って軍票 ( 軍が占領地で発行する通貨 )
は使用できずタイの通貨バーツ ( 円と軍票のルピーも交換レートは
パーであった ) に交換しなければならなかった。但し交換できる金
額に制限があり、私たちはシンガポールで30バーツだけ交換するこ
とが出来た。兵站の食事がお粗末なもので栄養不良にならぬ様、街の
食堂に昼飯を食べに行くと1回当り4~5バーツ、バナナ ( 緑色で
熟していないように見えるが中々美味しい ) 1房1バーツ、所持し
ていた30バーツはアット云う間に少なくなり先が思いやられた。街
には交換所も無く後は物々交換でその場を凌ぐことになった。

チュンポーンに到着して20日位が過ぎた頃、突然シンガポールの
第18独立守備隊司令部 ( 元昭南防衛司令部 ) の部隊がタイ国に移
駐のため当地を通過した。司令部の高級副官が私達に気付き、お前達
未だこんなところに居るのかと理由を聞かれた。早速鉄道連隊に事情
を話してくれて2~3日中には何とか乗車出来ることとなった。先述
の通り出張命令書に書かれた経路で行動しなければならず、勝手にタ
イ緬鉄道を利用するということは出来なかったのである。

2~3日後チュンポーンから鉄道を列車で国境の町カオファージに
行くことが出来た。時間にして幾らもかからないところであったが、
鉄道敷設には大変な困難と苦労があったと聞かされていた。いよいよ
ビルマが目と鼻先に見えてきた。カオファージから船に乗ってビルマ
最南端の町ビクトリアポイントにやっとの思いで到着することが出来
た。既に6月も20日頃となっていたと記憶しているが、雨季の走り
に入っており乾季には水無し川も増水して、ビルマ鉄道のある最南端
の町イエまでのトラック輸送は困難が予想された。乾季であれば川底
は舗装されていて道路として車の通行が出来るが、雨季になり川に水
が流れるようになれば川には橋が架かっていないので舟で渡るしか方
法が無いのである。私たちはビクトリアポイントからイエまでの陸路
5百キロメートルを超える道程を、トラックと舟を乗り継ぐ困難に耐
え途中メルギー、タボイ等の兵站にお世話になりながら数日をかけて
行動したのである。イエまでは戦地に行っているという感じは余り無
かった。

イエから列車でビルマ第2の大都市モールメンに到着するや否や敵
爆撃機の襲来を受けた。いよいよ戦場に来たなあという感じがひしひ
しと全身につたわった。敵の襲来を受けたのは台湾海峡の魚雷攻撃以
来である。ビルマにはイラワジ河・サルウイン河・シッタン河の3大
河あり、モールメンは第2の大河サルウイン河口の都市で、対岸のマ
ルタバンを結ぶ大鉄橋は当時爆撃により破壊されていた。よって私た
ちは便船でマルタバンに渡り、マルタバンから列車でシッタン河を経
由して、いよいよ最初の目的地であるビルマの首都ラングーンに向か
ったのである。

4 生と死の分れ目

英印軍の戦闘機や爆撃機の攻撃を受けながらも何とか無事にラング
ーンに到着したのは、昭和19年7月1日シンガポールを出立してか
ら実に38日目であった。長い長い道程であった。これからのビルマ
での道程は更に長いものであろう。

私たち6名の見習士官は緊張した面持ちでビルマ方面軍司令部を訪
れた。早速着任の申告を行った。その後私たちは夫々転属先の師団名
が示された。この命令が私たちにとって正に生と死の運命を決定付け
る命令となったのである。

    兵科見習士官  井納   理  第18師団司令部 (菊兵団)
    兵科見習士官  大瀧   武  第53師団司令部 (安兵団)
    兵科見習士官  伊藤  延男  第53師団司令部 (安兵団)
    兵科見習士官  今井   学  第53師団司令部 (安兵団)
    兵科見習士官  小安  歸一  第53師団司令部 (安兵団)
    兵科見習士官  佐々木 正拳  第53師団司令部 (安兵団)

私たちはこの運命を決定付ける命令を受けた後申告を行った。別室
で中尉の情報将校から命令簿を示されて、北ビルマの戦況が変わった
ので君達の配属先もこの命令簿に記載されているように変更されたと
説明があった。命令簿は和紙の縦書きの罫紙で、毛筆で6名全員が第
18師団司令部と書かれていたものを、5名は筆で縦に消されその横
に第53師団司令部と訂正されて添え書きされていた。菊兵団は九州
久留米の編成でマレー作戦を彼の有名な牟田口師団長で戦い、ジョホ
ール水道からシンガポール作戦を勝ち抜いた戦歴のある勇猛な兵団で
ある。一方安兵団は京都で編成された師団で南方軍の予備師団として
南方に派遣された師団である。それがビルマの戦況が悪化したので急
遽第一線であるビルマに仏印・シンガポール等から進駐してきたばか
りで、まだ第一線に追求中の部隊もあった。

私はこの後色々な戦闘経験を経て、この命令の変更がこれから先の
私たち6名の見習士官の生と死の運命を決定付けたとの思いを強く抱
いています。

第7方面軍司令部のあるシンガポール、当時明るく戦争何処吹く風
といった感じの近代都市型の街。それに引き換えビルマ方面軍司令部
のあるラングーン、空襲の被害もあるが暗い感じのする森の都。兵站
宿舎もシンガポールは曲がりなりにもホテル、ラングーンは兵站宿舎。
後方と戦場の違いがはっきりしていた。

兵站宿舎は長居がご法度、翌日にはラングーン駅から木材を燃料と
する列車に乗りビルマ中部のマンダレー向け出発した。途中街道荒ら
しB-25敵爆撃機の洗礼を何度もうけた。やはりビルマは戦場であ
るという認識が私たちの身体に徐々に沁み付いてきた。マンダレーは
旧王室のあった古い街で王城の跡も残っていた。マンダレーで列車を
下りた私たちは、第33軍司令部 ( 昆集団 ) のあるメイミョウ向け
列車を乗り換えた。

当時菊兵団も安兵団も共に第33軍司令部の隷下にあった。メイミ
ョウは高原の風光明媚な街で英領時代は避暑地として広く利用されて
いたと聞いている。メイミョウに着いて軍司令部にて着任の申告が終
った途端、居並ぶ軍参謀から一斉に君達見習士官は何のためこのメイ
ミョウまで来たのか?第一線は君達のような若い将校を待っているの
だ!君達は将校である兵よりも早く前線に行ける筈だ!一刻も早くこ
こを出発して前線に行け!と発破をかけられた。後で考えるとこの参
謀の中には彼の有名な辻大佐が居ったのではないかと思われた。

私たちは言い訳が許されないが勝手に来た訳でも無く、出張命令書
により行動しただけのことである。ところが別室に私たちが移ると、
軍の別の将校が直ぐやって来て、ここに退院患者の兵・下士官が30
~40名居るのでこれ等を第一線まで引率して呉れとのこと。参謀の
舌の根も乾かぬ内にこの始末、表と裏は戦場でも変わらないものと思
った。

メイミョウの街には余り長い時間滞在したわけではないので良く分
からないが、偕行社があり今年女学校出たての若い日本人の女性が数
人働いているのを見かけた。ビルマに来て日本人女性を見たのは初め
てであった。これも後になって噂として聞いた話であるが、ビルマの
戦況が著しく悪くなってから、メイミョウの偕行社で働いていた日本
人女性はマンダレーの南にあるキャウセという街で敵機の空襲で全員
亡くなられたと聞いている。後方の一部の特権階級の将校が利用する
偕行社の職員としてビルマまで来て戦死するとは、余りにも悲しいこ
とである。合掌。

ここで菊兵団へ赴任する井納見習士官と安兵団赴任の5名の見習士
官は別れてそれぞれ別行動をとったのである。内地出発以来の者もあ
り感無量であった。またこれが運命の別れ目ともなった。昭和19年
7月10日頃と記憶している。

5 所属聯隊に着任まで

メイミョウを出発して以来、殆ど徒歩で然も雨季のさなか30~4
0名の退院患者を引率しながら、食うことから寝ることから歩くこと
から、時には敵の戦闘機や爆撃機の退避まで、今まで誰もが経験した
ことの無いことを、試行錯誤しながら咄嗟の判断で物事を処理しなけ
ればならなかった。また悪疫瘴癘地で風土病のデング熱やマラリヤの
熱病、脚気アメーバー赤痢などまた疥癬の皮膚病にも気を付けなけれ
ばならなかった。

8月20日頃北ビルマのホピン付近にあった第53師団の司令部に
たどり着くまでには、私たち5名の見習士官は心身ともに疲れ果てて
おった。それでも皆協力して何とか師団司令部に到着し、退院患者を
関係部署に無事に引き渡すことができた。その後5名の見習士官は着
任の申告をした。申告が終ると担当の師団の将校から、君達5名の見
習士官は昭和19年7月1日付きにて陸軍少尉に任官した旨の電報が
入っている、階級章を付け替えて再度申告するよう指示されたのでそ
のようにした。その後所属聯隊の命令が下達された。

    陸軍少尉 大瀧   武  歩兵第119聯隊 (敦賀36部隊)
    陸軍少尉 伊藤  延男  歩兵第128聯隊 (伏見37部隊)
    陸軍少尉 今井   学  歩兵第128聯隊 (伏見37部隊)
    陸軍少尉 小安  歸一  歩兵第128聯隊 (伏見37部隊)
    陸軍少尉 佐々木 正拳  歩兵第128聯隊 (伏見37部隊)

私たちは3度目の申告をしたのである。これでビルマの第一線で戦
闘をする聯隊は京都の部隊と決まったのである。敦賀の聯隊に配属と
なった大瀧少尉とここホピン別れたが、後日の消息によると赴任後間
もない戦闘で戦死されたとのことであった。この配属命令一つをとっ
ても、人間の生と死の分れ目があるのを私は強く感ずるのである。京
都の聯隊に配属になった私たち4名はホピンより少し後方に位置する
モーハンに向かった。モーハンには128聯隊の聯隊本部があり、私
たち4名が聯隊本部に着いたのは昭和19年8月26-27日頃と記
憶している。

到着後直ちに岡田聯隊長殿に着任の申告を行った。聯隊長は温顔な
眼差しで、私たちの長途の行動をねぎらい、また現下の戦況に着いて
のお話があり、身体に気をつけて軍務に励むよう訓辞された。その後
門聯隊副官から配属中・小隊が示された。伊藤少尉が第6中隊、今井
少尉が第2機関銃中隊、小安少尉が第3機関銃中隊、佐々木少尉が第
3歩兵砲小隊に夫々配属となった。この命令でまた生と死の分れ目が
近い将来に出るであろうとは、誰もが分からないことである。その人
その人に与えられた運命と云えばそれまでであるが、戦場における転
属・配属命令はその人の生と死の分れ目を決定つけるものである。現
に今井少尉は第2機関銃中隊に配属されて以来、数度の戦闘を切り抜
けて健在であった。それが昭和20年4月10日頃敵戦車部隊の攻撃
を受けたパヤガス付近の戦闘で、機関銃小隊を指揮している最中不運
にも敵迫撃砲弾の破片が今井少尉の背中に突き刺さり、この破片創が
元で後方に下がったがタイ国に入る前に戦傷死したと聞いている。パ
ヤガスで負傷した後彼と顔をあわせ、早く良くなれよと一言掛けたの
が最後の別れとなった。

6 おわりに

ここまで私が戦地で経験した「生と死の分れ目」について書いてき
ましたが、これはそのほんの一例であって実際にはもっと数多くの分
れ目があると思います。ただ私たちにはそれが気付かないだけだと思
考されます。私たちの先々の運命は宿命的に決められているのだと思
うことはせず、そこに自分自身で切り開いて行く努力やその他の何か
が必要ではないかと思います。

しかし私たちがビルマの戦場で常識では考えられない過酷な環境の
なかで、先のことなど考える余裕など無くその日その時を生き長らえ
るのに精一杯というのが実状でした。多くの戦友の方々を亡くしまし
た。あれから60年の歳月が流れました。私たちも齢80を超えてい
ます、しかし生ある限り亡き戦友の御霊をお慰めしなければならない
と思っています。そこに128ビルマ会の存続が意義あるものとなり
ます。      ( 2004-9-18 記 )
          
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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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