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私のビルマ戦記(5)

小安歸一さんの「私のビルマ戦記」第5回を掲載します。
ビルマ戦記―4(2002-12-7発信)

3  ビルマの日本軍は何故敗れたか?

1)先ず第一に挙げられるのが、日本軍は精神面(大和魂)を重視し、
後方支援による補給を軽視した。これに反し連合軍は兵員の生命を
第一とし、先ず物量による攻撃を我が方の想像を遥かに超えた徹底
したものであった。
2)ビルマの制空権は完全に連合軍が握っていた。
3)また深く敗戦の原因を突詰めることは大変困難であるが、私見と
して考えられることは、1、戦略・作戦計画の杜撰なこと。2、軍と
して実戦訓練の不足・不徹底。3、兵器・火砲・戦車・ 航空機・輸
送機器等何れを比較しても雲泥の差がありすぎた。4、第 一線部隊
の地図の不足。情報の不足等々数え挙げれば限が 無いほど全てのこ
とに格段の差が歴然としていた。5、最も重要なこ とは、戦争指導
と言うか作戦指導に失敗した責任者の責 任の取り方が極めて曖昧で
あった。

確かに、大東亜戦争は緒戦から日本軍は破竹の勢いで連合軍を破り、
一時期はシンガポール・ビルマ・蘭領印度諸島(現インドネシア)・
ニューギニア(パプア)島およびその近海の諸群島まで戦線を拡げ、
オーストラリアまで攻撃するような勢いがあった。それが、海軍のミ
ッドウエイ近海の航空戦続いての海戦で米軍に苦杯を喫して以来、ガ
ダルカナル島・パプア島東海岸・その近海諸群島等が次々と連合軍の
反攻を受け完全に負け戦となった。ビルマに於いてもまた然りであっ
た。

1)これ等の敗因を具体的に記述してみると。

私が所属することになる京都伏見の歩兵第128聯隊は、昭和19年5月
初旬北ビルマのモール付近の緒戦にて、ウインゲート少将率いる空挺
兵団と戦闘し致命的な損害をこうむった。聯隊は昭和18年12月動員に
て編成され、同月中に内地を出発し輸送船にて、上海を経由し当時仏
印のサイゴンにて待機中であった。それがビルマの戦況が悪くなり急
遽ビルマ戦線に投入されたのであった。

編成は現役兵(戦争未経験)と召集兵(支那事変経験者と戦争未経
験者)により為されていた。編成後の訓練も十分とは言えず、装備も
38式歩兵銃、擲弾筒、94式軽機関銃、92式重機関銃、歩兵砲(大隊
砲)、対戦車砲(速射砲・機動砲)、聯隊砲(42式山砲)の火器から
なり、重火器・弾薬の輸送は駄馬・挽馬(日本の馬)により行はれた。
支那事変で中国軍を相手に戦った装備とほぼ同じである。火器はとも
角として重火器を輸送するのに動物である日本馬を使うとは、如何な
る発想から出てきたものであろうか。

動物はご承知のように先ず食料が欠かせない、気候風土に敏感であ
り、それ自体の輸送が大変である。案の定日本馬は第一線に着くまで
に全滅となった。その後の重火器の輸送は兵員による人力搬送が主で、
時には現地の牛や牛車により行われたこともある。長途の困難な移動
と旧式な装備を以って、悪疫瘴癘(第一線に到着するまでにデング熱
や悪性のマラリヤに殆どの兵員は罹っていた)の地北ビルマで、強固
な蜂の巣陣地を構えた英印軍に日本軍特有の肉弾突撃戦を繰り返した
のであるから、犠牲の大きかったことは想像以上のものであった。

後方からの補給の悪かったことは、第一線の将兵の食糧として籾が
配られ、将兵はその籾を鉄棒に入れ円匙(スコップ)の柄の丸い先に
て搗き生米のまま食べたと言う話も聞いている。此れに引き換え英印
軍は、空挺部隊で敵中に陣地構築をしたので、後方からの補給は輸送
機にて自軍の頭上に飛来し、食糧・医薬品・弾薬など色分けされたパ
ラシュートの降下によるものであった。尤も日本軍もそのお裾分けを
受けたものもある。この様に大和魂を前面に出した突撃戦法と、有り
余る此れでもか此れでもかという大量な物量による戦法とでは、自ず
から勝敗は決まっていたのである。

2)次に制空権の掌握が近代戦の勝敗を決する。 
 
私がビルマ戦線に参加した昭和19年7月以来20年8月15日の終戦ま
での1年余の間、友軍機を只の一度も見たことが無かったのである。
即ち当時ビルマの制空権は完全に米英軍に掌握されていたことになる。
主要な輸送機関である鉄道もマンダレー以北の橋梁は、サガインの大
鉄橋をはじめとして殆どの鉄橋は空爆により破壊されていた。

また主要道路も夜間だけ走る限られた友軍のトラックを襲う、街道
荒しの異名をとるボーイングB25双発中爆撃機の機銃掃射と爆撃に
より危険極まりないものであった。ビルマ上空に飛来した米英の航空
機はロッキードP38双胴戦闘機・コンソリデイーデットB24四発
重爆撃機で、終戦直前に英軍地上攻撃機ビューファイターが出現した。
昭和20年7月10日シッタン河畔のデルタ地帯での、ビューファイ
ターによる空中よりの機銃掃射は敵ながら中々見事な攻撃で(今だか
ら言えることで正直私も此れは遣られたたと思った)、地上に於ける
日本軍の損害は非常に大きかった。(聯隊長菊池大佐も大腿部に受傷
し亡くなられた。ご冥福をお祈りします。)この攻撃は今までに経験
したことのない凄まじいもので、地上攻撃機による数方向からの同時
攻撃で、機上から発射された機関砲の弾がビュンビュンと私の身に迫
り真に恐怖を身近に感じたものであった。今でもその時の情景がはっ
きり眼前に浮かんできます。

また、夜が明けると共に英印軍の偵察機は今日もまた我々の陣地の
頭上に飛来し、低空でブルンブルンという嫌らしい偵察機特有のエン
ジン音をたてながら、迫撃砲の弾着の修正を日暮れまで終日行うので
ある。英印軍の地上における攻撃の特徴は日本軍を発見すると、先ず
迫撃砲で一時間以上迫撃砲弾をわが陣地にこれでもかこれでもかと言
うほど打ち込むのである。ところがこの迫撃砲は中々上手く当らない
ので、偵察機のお世話になると言うことである。これも制空権を完全
に掌握しているから出来る作戦である。因みに迫撃砲は炸裂音が凄ま
じく、弾の破片は先が尖り大小になって四方八方に広く飛び散るので、
迫撃砲弾破片創(きず)は中々厄介な怪我であり時には人命を奪う時
もある。(破片はギザギザで肉体に突き刺さると戦場での処置は困難
であった。) 
           
3)-1戦略・作戦計画の杜撰  
       
 インパール作戦に見られるように作戦計画そのものは、周到な計画
に上に練り上げられ図上作戦も何度も繰り返されたと聞いてはいる。
然し実戦そのものは前述のとおり3個師団からなる兵力を十分に活用
できる態勢で発進したのであろうか?    準備不十分のまま弾薬
・食糧はインパールにありとして、後方補給の兵站を疎かにした作戦
が始めから成功するはずも無い無謀なものであったと思われる。

3)-2軍として実戦訓練の不足・不徹底

内地で動員が発令され新しい部隊が編成されて、新部隊として十分
な教育・実戦的訓練が為されない中に、海外に派遣され長途の困難な
種々の輸送経路を辿り、第一線に投入されるのである。輸送中内地と
気候風土の違いにより或る者は病にたをれ、或る者は体調を崩し第一
線に着くまでに、部隊は兵力的に相当消耗している。(悪疫瘴癘の地
北ビルマでは殆どの将兵はデング熱・悪性マラリアに罹っていた。)

事実、ビルマ戦に於いて後方よりの武器弾薬・食糧・医薬品の補給
は殆ど皆無に等しかったが、将兵の補充は昭和19年9月頃北ビルマ
のモーハン陣地構築時に相当数(約700人位)あった。この中に昭和
18年徴集の若々しい現役兵が相当数いた。彼等は現役兵として京都伏
見の歩兵聯隊(我々の原隊)に入隊し、第一期の初年兵教育(3ヶ月
間)を受け、戦艦大和に便乗してシンガポール経由にてビルマの第一
線に到着したとのことであった。逞しく若々しく見えた現役兵であっ
たが、北ビルマの気候風土、劣悪なる居住環境、後方よりの補給無き
食糧(米と岩塩とジャングル野菜、時には牛肉もあった)事情等によ
り、マラリア、脚気、栄養失調などに罹り体調を崩す者が多かった。

また、2ヶ月余かかって構築した掩蓋陣地も、19年10月下旬英印軍
の攻撃により他方面の陣地が突破されたので、2~3日の防御で放棄せ
ざるを得なくなり転戦(退却)命令で後退した。私が所属したのは機
関銃中隊で92式重機関銃が僅か一挺ではあったが、運搬は銃身(約3
0キログラム)、脚(約30キログラム)に分解し兵員による人力搬
送であった。また、弾薬は20連(一連は弾30発が真鍮板の保弾板
にはめ込んである)が頑丈な木函(弾600発重さ約26キログラム)
に入っており、背嚢の上に担ぐのは中々大変である。(通常は駄馬が
搬送する)現役兵の初年兵は戦場は始めてであり、行軍の訓練も不足
しており、夜間で且つ道路が悪い条件の中でもあり、落ちる者(落伍
者)が出たのは当然であった。然し此処は戦場である。行軍中落ちる
と言うことは死または捕虜を意味する重大なことである。

只の3ヶ月しか基本訓練を受けていない初年兵を、当時のビルマの
第一線に戦力として送り込んでくる軍首脳部の計画の無さが問題であ
り、此れでは到底米英軍に勝つことは出来ない敗因の一つである。事
実私たちが前橋陸軍予備士官学校で受けた教育・訓練でも、精神面が
重視され実戦的訓練が不十分であることを強く感じた。最近テレビニ
ュースで米軍の実戦訓練の有様が放映されるのを見ると、さすが物量
豊かな米軍の真に迫った訓練だと感じる。この訓練が日本軍では徹底
して実施されていなかった。
                  
3)-3軍の装備に雲泥の差があり過ぎた。

種 類      日 本 軍    米 英 軍

銃 38式歩兵銃       自動小銃
戦車       中戦車        M3 /M4戦車
航空機      なし       P38B25B24
偵察機、輸送機

物量の差は問題にならぬ程差があり、始めから喧嘩にならない戦争
であった。我が軍が一発撃つと、お釣りに迫撃砲弾が一時間から二時
間、時にはそれ以上飛んできた。物量の輸送、兵員の輸送等に於いて
も機械化されたものと、人力によるとでは問題にならないことである。
昭和20年に入ると戦車攻撃による中央突破が行われ、メークテーラ
付近はこの犠牲になっている。これも物量による制空権を握っている
から出来る戦闘である。 
 
3)-4地図・情報の不足。

私たち見習士官が昭和19年7月1日当時のラングーンのビルマ方面
軍司令部にて、第53師団に転属命令を受けた後、当師団が北ビルマ
にて戦闘している地域の地図を数枚受領した。その地図は英国製で13
万5千分の1であった。中々緻密でよく出来ていたと思ったものであ
る。然し時日の経過と共に地図には無い地域に移動し戦闘をしていた。
即ち我々は地図も無しに命令されるままに戦闘をしていたのである。
今考えても無謀そのものであつたと思う。

20年4月10日頃、中ビルマのキャウセから転進していた部隊は日暮
れ直前にカロー街道に到着した。到着と同時に休む暇も無く私は聯隊
本部に呼ばれた。重機関銃の搬送も手伝っていたので体は相当草臥れ
ていた。本部に行くと各大隊から将校斥候を出すと言う命令であった。

将校斥候は通常小銃中隊からでており機関銃中隊からは出ていなか
った。然し若い将校が少ないので重機中隊の私に命令が来たのである。
命令は下士官以下数名の兵を率いて、カローから西約40キロの地点に
あるパヤガス付近の敵情を偵察し、明朝までに本部に報告せよとのこ
とであった。

命令受領後本部で25万分の1の地図見せてもらい概略を模写した。
(聯隊にはこの地図は1部しか無かったのである。)斥候に出て暫く
して第53師団の三宅少佐参謀と会い、何処へ行くのかとたずねられた。
これからパヤガス迄斥候ですと答えると、ご苦労!地図は有るのか?
と言われたので聯隊本部で見て写して来ましたと答えたら、参謀は図
嚢から地図を取り出し私に見せてくれた。その地図は5万分の1で本
部で見たものよりは、より詳しく記されており目的地までは一枚の地
図では間に合わず二枚にわたっていた。戦争をやるのに地図が第一線
の士官に渡っていないこと、また私たちに分かっているのは、目の前
の状況・戦況だけで自分たちの中隊・部隊が全ビルマの如何なる立場
におかれているか等の情報は皆目わからなかった。井の中の蛙大海を
知らずと言う立場で戦争をしていたのである。実情は情報よりその日
その日の食べ物や、今日明日を如何に生き抜くか目先のことに心を砕い
ていたのである。

3)-5戦争指導・作戦指導の責任者の責任の取り方が極めて曖昧であっ
た。

作戦計画の実施発動に着いても夫々上級軍司令部例えばインパール
作戦は第15軍司令部からビルマ方面軍司令部に上申し、方面軍司令部
は作戦計画の可否を判断の上南方軍総司令部に上申される。総司令部
にても上申の可否を検討の上大本営に上申され、御前会議を経て天皇
陛下の裁可が下りるのである。実際面では計画の段階で軍・方面軍・
総軍の参謀・参謀長・総参謀長・総副参謀長等と軍司令官も加わり作
戦計画の検討また図上作戦を繰り返し実施して事前の確認は行われる
のである。 
     
この様にして裁可された作戦は現地軍司令官により、作戦命令が出
されるのである。

インパール作戦は不調に推移し、終結を迎えたときも上記の上申の
順序によりご裁可を得て、撤退したと聞いている。この作戦の現地責
任者である第15軍司令官牟田口廉也中将は、第15軍司令官を解任さ
れ内地帰還となり、帰国後軍の要職に就いたと聞いている。また当時
ビルマ方面軍の最高責任者である軍司令官河辺正三中将も内地に帰還
の上大将に昇進されこれまた軍の要職に就いたと聞いている。当時の
軍の司令官は雲の上の方々であられたから、責任はあってもその責任
の取り方が極めて曖昧・不明瞭なものであった。

ビルマ方面軍で約19万余の戦死・戦傷病死者を出している。私が
推測すると銃弾や爆撃による戦死者よりも、戦傷病死者(病に倒れた
もの・落伍し往き倒れになったもの・戦傷者が後方の野戦病院等に収
容される前に餓死した者等)の方が多いのではないかと思われる。

昭和19年7月~8月私たち見習士官は、第一線を目指してマンダ
レーからサガインに行きイラワジ河を渡り、そこから鉄道で台車に乗
りメザまで割合早い時間で行ったと記憶している。メザ河のつり橋を
渡ってからは鉄道線路上を只管徒歩で北進した。雨季に入っており枕
木から枕木とへと歩を進めるのであるが時折足を滑らし、転んだこと
も度々あった。また夜行軍で先が見えず線路上を歩いていると、突然
ぐにゃっとした物を踏んだ。よく見るとそれは何と友軍の兵隊の死骸
であった。行き倒れになりそのまま息を引き取ったものと思われた。

その頃から鉄道の駅舎近くになると異臭が鼻を突くようになった。
駅舎付近には真っ黒に蝿がたかり蛆がうようよしている死骸が数え切
れないほど散乱しているではないか。また疥癬にでも罹っているのだ
ろうか顔から足まで黒くただれ歩くのも儘ならぬ体で、ボロボロの汚
れた服装で、兵隊さん兵隊さん食べ物を下さいと、空の飯盒を差し出
して物乞いをする見るも無残な哀れな兵隊が数人居たには驚いた。此
れが皇軍と言われる軍隊の兵であろうかと目を疑った。此れが第一線
の裏舞台かと気が引き締まる思いがした。後日此処が北ビルマの白骨
街道であることを知らされた。

この様な状態はビルマの戦場では何処でも見られた惨状である。勝ち
戦なら後で戦場を整理することも出来るが、負け戦ではそれも出来ず
其の儘放置されたのが実情である。戦争にはこれ等のことはつき物と
思われるが、軍上層部の責任はどうなるのであろうか。内地では英霊
として靖国神社に神とし祭られているが、大いなる疑問を感ぜざるを
得ない。亡き英霊のためにも日本国いな全世界から戦争と言うものが
無くなる様にしなければならぬと思う。

結び 私が下級将校として実戦約1年2ヶ月と終戦後約2年の収容
生活をビルマで経験し、内地復員後各種戦記本を読んで、経験したこ
とと書物を読んで得た知識とを元として、感じたことを書きました。
記述に事実と異なることや、間違って見ている事もあるかも知れませ
ん。この点は若しありましたらお許し下さい。

然し戦争と言うものは非常に酷いもので、絶対にやってはならぬも
のであることを、声を大にして申し上げる次第である。湾岸戦争もあ
の年の1月15日ジュネーブで、イラクの当時のアジス外相が平和を
受諾することを私は願っていた。残念ながら不調に終わり、湾岸戦争
は行はれた。今またアメリカによりイラク攻撃が行われるような国際
情勢にある。私は話し合いにより解決し、戦争にならないことを祈る
次第である。


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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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