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私のビルマ戦記(4)

小安歸一さんの「私のビルマ戦記」第4回を掲載します。

ビルマ戦記ー2(2002-10-20発信)

ビルマ戦記は書き出すと長編になりますので、まず私がビルマで戦
争を体験して感じたことを色々と書いてみたいと思います。

1 日本陸軍は昭和12年7月7日の盧溝橋事変以来支那全土、仏印、さ
らには昭和16年12月8日には米英等の同盟国に宣戦布告し、マレー半
島、シンガポール島、蘭領インド ( 現在インドネシア ) 、ニユーギ
ニア、および近隣の諸群島と、タイ国、ビルマまで戦線を拡大し、戦
争に勝つ自信があったのであろうか? また如何にして終戦処理をし
ようとしていたのであろうか?

今現実の問題として考えて見るだけで、余りにも規模壮大 ( 無限
大といっても過言では無いと思われる ) で、当時の国際情勢と時の
勢いとはいえ、無謀にもよくこれだけのことをやったなあと憤りを感
じます。

この戦争により数百万人の尊い人命を失い、また国土を焼失する等
の犠牲を払ったことを代々忘れないことと、関係諸国とその国民にも
筆舌にて言い表すことの出来ない犠牲を強いたことを率直に認め、深
く深く謝りお詫びし、再びこのような戦争を起こさないことを誓いた
いと思います。国の為政者は戦争は絶対やってはならないものと肝に
銘じ、外交は飽くまで話し合いによることをトコトン尽くすべきと思
います。そうは言っても古今東西無くならないのがこの戦争です。今
日はこれまで。


ビルマ戦記―3(2002-10-27発信)

2 ビルマ ( 現ミヤンマー ) は大東亜戦争開始直後の昭和17年1月か
ら、日本陸軍は軍司令官飯田祥二郎中将率いる第15軍(林集団)・第
33師団(弓兵団)、第55師団(楯兵団)の2ケ師団をもって、泰緬
(タイとビルマ)国境を突破して南部ビルマに進攻した。

この時、アウン・サンの率いるビルマ独立軍が日本軍と共に、この
進攻作戦に参加し3月8日には首都ラングーン(現ヤンゴン)を陥れた。
また、シンガポールの陥落(昭和17年2月15日)に伴い、日本軍は更
に第18師団(菊兵団)第56師団(龍兵団)の2ケ師団を海路ラングー
ンに上陸させ北進を開始させた。

当時の敵は英第1ビルマ軍団(2ケ師団と1戦車旅団)と中国遠征
軍(約10ケ師団)であり、当時の現地人の話によると、ボロボロの
軍服を着た日本軍が攻めて来ると、イングリ(英印軍をビルマ人はそ
う呼んでいた)は為すすべもなくただ敗走したと言っていた。

昭和17年5月末にはこれ等の敵をビルマ国外に撃退しビルマ戡定作
戦は終了した。

戡定作戦終了後のビルマは、比較的平穏に見えたが、インドおよび
中国を基地とする米英空軍の飛躍的な増強、東部インドの航空基地の
拡大、ビルマに対する空襲の激化、援蒋空輸量の増大等により、連合
軍反攻の前兆が濃厚になってきた。その後11月末にはアキャブ地区に
対する英軍の反攻、18年2月中旬には北ビルマミイトキーナ鉄道沿線
シュエボーカレワ地区に、ウインゲート旅団による襲撃などがあり、
日本軍はビルマ防衛力の強化が焦眉の急となり、18年3月27日新たに
ビルマ方面軍(森方面軍)が編成された。

然しその後終戦まで、日本軍はビルマで英印軍・中国遠征軍との長
い長い泥沼の戦争(負け戦)へと突き進むのである。

では、何故に日本軍は日本より遥かに遠い遠いビルマの地に軍を進
めたのであろうか?

主たる目的としては、援蒋ルート(支那の蒋介石軍の戦闘を援助す
るため米・英が軍需物資を輸送する道路)であるレド公路(北東印度
のレドから北ビルマを経て中国の雲南へ通じる道路)を、日本軍が確
保しこれを遮断することであった。

付随して考えられることは、彼の有名なインパール作戦の目的の一
つとなった、スバス・チャンドラ・ボーズ率いる印度国民軍の印度進
攻を達成させ、チャンドラ・ボーズによる印度独立(当時印度は英国
の植民地)の野望を遂げさせること。

余談になるが、インパール作戦は広大なるビルマの防衛が、当時の
日本軍だけの勢力では到底連合軍の反抗を阻止することは出来ないの
で、むしろ攻勢をとり、連合軍反攻の策源地インパールを覆滅するの
が最良の方策であろうと考えるようになった。然しこの方策は第15軍
(林集団)牟田口廉也中将軍司令官の表向きの目的であって、本来の
目的は作戦をやらんが為の作戦であったのではなかろうかと、私には
思われるのであります。その理由は、1)制空権は完全に敵に握られ
ていた。2)インパールまでの行程は山腹の山道であり、途中チンド
ウイン河(雨季になると水量が増し大河となる)険峻な2千メートル
級の山々が続くアラカン山脈があり、不毛地帯であるので兵站(戦場
の後方にあって食糧・弾薬などの軍需品を補給するための機関)は通
常の2倍が必要とされるに、作戦中食糧・武器弾薬・医薬品・まして
衣服等の補給は殆ど為されなかったと思われる。聞くところによると、
食糧・弾薬・医薬品等などインパールにありとして、軽装備にて食糧
も約30日分位しか携行しなかったようである。3)この作戦自体計画
当初からその成功を危惧される方々も居られ、作戦に慎重派と見られ
た当時の第15軍の参謀長小畑信良少将は更迭された。4)作戦は昭和
19年3月8日から一斉に行動を開始し、3月15日にはチンドウイン河の
奇襲渡河に成功し、烈(第31師団)はコヒマに、祭(第15師団)主力
はインパールに向かい、弓(第33師団)はトンザンに向かい、夫々ア
ラカンの峻険を越え突進を開始した。天長節(4月29日)までにはイ
ンパールを陥落するという目標も達成できないまま死闘を繰り返しし
ていた。この間、15軍司令部と、各師団司令部に統帥上の軋轢があっ
たようで、5月以降弓兵団第33師団長柳田元三中将の解任があり、彼
の有名な「抗命」の烈兵団第31師団長佐藤幸徳中将の戦線の放棄、ま
た祭兵団第15師団長山内正文中将の病状悪化による解任など、作戦開
始時の3師団長に解任等の通常では考えられないことが起こったので
ある。この作戦が如何に無謀なものであったかを如実に物語るものと
思われる。

これ等の目的を達成させるために、日本軍は昭和20年8月15日の終
戦までにビルマ方面軍(森)として、第15軍(林集団)、第28軍(策
集団)、第33軍(昆集団)の3ケ軍を編成し、これに10ケ師団、1飛行
師団、3ケ混成旅団他を配し、実に合計328千余名の兵員を動員したの
である。このうち戦没者は190千余名の多数となり、生還者は137千余
名となっている。これだけの多数の兵力を動員し、これだけ多数の犠
牲者を出したビルマ作戦の失敗の責任というか、戦争責任は誰がとっ
たのであろうか? 確かに終戦当時の方面軍司令官であった木村兵太
郎大将は、A級戦犯者として極東国際軍事裁判で処刑されています。
しかし、その他の作戦指導者は解任、転属等で日本内地に無事帰還さ
れ昇進された方々も多数居られると聞いています。

ビルマ戦線だけでも以上のような数字が挙げられています、この様
な戦略が何処で、誰によって計画され作成され、どんな戦争指導者
(国家の為政者)の決定により、実施が下命されたのであろうか?現
在の私たちの常識を遥かに超えたものであります。教育・訓練と言う
ものの恐ろしさと、制度のあり方とそれによる戦争指導者(国家の為
政者)の施策が如何に重要なものであるかが深く考えさせられます。

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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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