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私のビルマ戦記(3)

小安歸一さんの「私のビルマ戦記」第3回を掲載します。

このビルマ戦記は私が平成14年9月から12月までの間メールで送ったもののコピーです。あくまでパソコンのメールで不備な点も多々ありますのでご了承下さい。
              平成15年1月31日
                         小  安  歸  一

ビルマ戦記―1(2002-9-11発信)

戦況は第二大隊と並進のかたちをとっていた第三大隊においても酷似した苦戦の様相となった。第三大隊第三機関銃中隊小安歸一少尉はー
 「ちょうど第十一中隊の十数名の将兵が、くぼ地になったところを全員一列で、通りかかったとき突如、前方の敵(英印軍)陣地から、猛烈な機銃(チェコ重機関銃)の掃射を受けた。自分があっという間もなく、眼前の市原広次少尉をはじめとする第十一中隊の隊員がほとんど将棋倒しになるのを見た。自分もその瞬間、身を伏せていた。

我々は夜明けと同時に敵の陣地の背後をついたのであったが、我々の突撃よりもはやく敵の方が機銃で射撃を開始した。」

 「この第十一中隊の全滅に近い状況を前に自分は重機(九二式重機関銃)による攻撃を加えるしかないと判断し、百メートルほど前方の敵陣を掃射すべく重機を据えるや、すぐに撃ち方を命じた。その重機が順調な発射音を響かせはじめた直後、まだ一連(三十発の弾をはめ込んだ真鍮板)も撃ち切らないうち、射手の細見光成上等兵が敵弾を顔面に受けた。その刹那、細見上等兵は鼻と口からすさまじい血をふき出し、がっくりと傾いた頭部の鉄かぶとが重機の銃身にカチッとあたった。射撃はすぐに代わりの兵士が続行したが、敵からの銃火は一層に激しくなるばかりで友軍の損害は急速に増えはじめた。

すぐ横を見ると中隊長高野問一郎中尉が小銃隊のやられて放りなげられた小銃を拾って応射中だった。自分も同じように小銃を拾って射撃をしようと、すぐ近くの小銃をつかんだ刹那、頭部に言いようも無い衝撃をうけた。自分はその場に昏倒した。」
        
この小安少尉を倒した銃弾は、彼の鉄かぶとの正面に二個の弾孔を刻み、その鉄かぶとの後方はざくろの裂け口のごとく破られていた。そして、前方からの銃火はなおも執ように標的を求めていたのか、この頭部の衝撃で昏倒した小安少尉がようやくにして我にかえり再び、体を動かそうとした直後、さらに新たなる一弾が彼の右大腿部をかすめた。彼は急ぎその場にて擦過傷口を三角巾で包むべく仮包帯にかかった。小安少尉は彼我双方の激しい撃ち合いの間、さらに右大腿部に盲貫銃創の重傷を負って大隊本部にて軍医の治療を受けつつあった。


ビルマ戦記1-2(2002-9-11発信)

私のビルマ戦記ー1 は、私たちのビルマ戦記ー「安」歩兵第百二十八聯隊回想録を京都新聞社の久津間保治さんが読まれて「防人の詩」の「ビルマ編」として執筆編著されたものからの引用です。原本は私たち戦友が原稿を書いて出版したものです。これは昭和19年11月14日払暁北ビルマのピンウエイの戦闘の一部で私が経験したものです。
 
私は今年10月で81歳になります。SSMの総会(幕張パソコン教室幕張メデイアサーフインのメールグループ)に出席した際、小安さんの終戦時はときかれ、ビルマのシッタン河畔のザロッキーですとお話しました。それならメールで戦記でも書かれたらとのご希望もありました。

然しそうは言われても戦記をメールで書くことはなかなか大変なことです。私は戦争経験者として、戦争には絶対反対です。しかし世界からは紛争・戦争は無くなったことがありません。どうしたら真に平和な世界ができるのでしょうか?

 私の拙い戦記でもお読みいただく奇特な方がおいででしょうか。

           私の戦歴

1 昭和17年10月 1日   東部第7部隊第2機関銃中隊入隊(東京青山)
1 昭和18年 5月10日   前橋陸軍予備士官学校第1機関銃中隊入校
1 昭和18年12月25日   同校卒業 兵科見習士官
1 昭和19年 1月29日   シンガポール上陸
1 昭和19年 7月 1日   ビルマラングーン着 陸軍少尉
1 昭和19年 7月 1日より 京都第53師団歩兵第128聯隊にて北ビル  
1 昭和20年 8月15日まで  マ、イラワジ河、シッタン河作戦に参加
              シッタン河畔ザロッキーにて終戦
1 昭和20年 8月20日   陸軍中尉
1 昭和20年 9月末     英軍により武装解除
1 昭和20年11月ころから  ラングーン市アーロン収容所・コカイン収容所にて
  昭和22年 6月末まで   英軍の作業に従事する
1 昭和22年 7月初め    復員船攝津丸にてラングーン出港途中シンガポール島                          セレター軍港にて給油宇品港へ
1 昭和22年 7月24日    宇品にて復員
 
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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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