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自主投降した日本兵捕虜

戦時中、日本の軍人は東条英機陸相(当時)が出した戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず」という一語によって、捕虜になるくらいなら自決せよと教えられていました。ですからわれわれ当時の軍国少年は、日本の軍人は絶対に捕虜にならないものと信じていました。

ところが戦後になって、真珠湾攻撃の特攻隊員・酒巻元海軍少尉を始め、多くの日本兵捕虜がいたということが分かり、まったく驚きました。その数は、赤十字国際委員会捕虜中央情報局の資料によりますと、何と約20万人ということです。

捕虜になった体験記など読みますと、ほとんど酒巻元少尉のように、負傷して人事不省になった、身動きできなくなったといった原因です。しかしこの数字からみて、全員がそういうケースで捕らえられたとは考えられず、やはり皇軍の軍人でも、白旗を掲げて、自主的に投降した捕虜が大半と考えられます。

そういう人たちは、投降したことを恥じて、戦後も自らの体験を語ることはほとんどなかったと思います。しかしそれを実証する資料も数多くあるようです。以下そのいくつかをご紹介します。

●「6月23日に考える

<牛島司令官や雨宮24師団長は最後の1兵まで敢闘せよ、いやしくも敵の捕虜には
なるなと指導された如く、指揮官は不降伏主義の建前を崩されなかった。

然し、米軍陸軍公式戦史によると日本人の6月20日(戦闘終盤)現在の捕虜は軍人
2,480人だが、その後は米軍の熱心な呼びかけに応じて毎日1,000人内外の投
降者が出ている。これは我々としては信じ難い事であるが、現実には6月30日では
軍人7,401人、軍夫(非戦闘員)3,339人(内朝鮮人1,587人)となった。
同日での住民は約45,000となり軍人の捕虜としては太平洋戦争で前例を見ない多
数であるのに驚く。

8月15日の終戦後は事実を知って各地で遊撃戦をやったりして居た軍人も負傷して
手当をして居た者や或いは再起を期していた軍人も多く出てきたので、11月30日
には軍人軍夫で16,346人となって居る。

八原博道大佐高級参謀は大本営に報告の任を帯びて、壕を出た後住民に混じり込んで
機を待っていたが、7月24日顔見知りの元県庁職員に発見され屋嘉の軍人軍属収容所
に収容された。八原大佐はこの収容所について、20年8月末において将校キャンプ
約500人・下士官1,500人・兵6,000人・沖縄出身兵2,000人・朝鮮人
1,000人で計1万人位居たと書いて居る。>

●「沖縄戦と住民:軍政・集団自決・捕虜処刑 鳥飼行博研究室」

<少数の日本人は自決したが,民間人の多くは,くたびれ果てて薄汚れて,米軍
支配地域でばらばらになってしまった。結局,第77師団は,1195名の民間人,121名
の日本兵捕虜を拘束した。26名からなる韓国人は,白旗を掲げて投降してきた。阿嘉
島では,自発的に投降してきた日本陸軍中尉が「自殺するなんて意味がないことだ」
といった。>

<写真(下):米軍に捕まった日本軍捕虜;降伏することが許されないとはいっても,
投降を選択する兵士もいた。沖縄戦では7000名以上の日本軍軍兵士が捕虜になった。
しかし、降伏しようにも、友軍から射撃されては悲惨である。>
http://www.geocities.jp/torikai0017/army/USA-P-Okinawa-p466pow.jpg

<1944年11月,日本兵100名の死者につき日本兵捕虜の比率だったが,2ヵ月後には 60:1
になり,その三ヶ月後には 30:1と捕虜の比率が高まった。1945年7月までに日本兵の
死者7名につき捕虜1名の比率となった。1945年初頭, フィリピン戦で捕まった捕虜の
46%は,連合軍のプロパガンダ・リーフレット に影響されて投降した。>

●「ドン・ブラウンと昭和の日本 (2)」

<日本軍はもともと無投降主義ですね。 捕虜になっても日本に帰れないという感じだっ
たんですが、最末期になると、玉砕というのは実際は文字どおり全滅ではなく、「玉砕
した」と中央に連絡して、あとは現地で何をやってもいいという、「玉砕」の次の段階
なんです。 その段階で捕虜がすごく増える。>

<フィリピン戦の統計では、初期の捕虜はせいぜい数十人なんですが、戦争末期は1か月
で1千人、2千人単位で増える。 それは、撒かれたビラの量と正比例しているんです。
最後の「生きるため」というか、もう餓死するしかない状況の中で、ビラが意味を持った
という推測はできるかもしれません。>

●「北京で再会した中日の「戦友」たち
 
<共産党の捕虜政策が日本軍兵士の中に浸透し、日本軍の作戦が瓦解するにつれて、
彼らの中に「反戦」の思いが芽生えた。投降事件も次々と起こり、「八路軍の中の日本人
は、40年に自主投降した者が7%、42年には同38%、43年には同48%を占めた」
(『反戦兵士物語』)という。>

●昨年、NHK・BSで毎日放映された「あの日 昭和20年の記憶の中での、作家の船越
義彰さん(当時20歳)の証言。

<米軍の船から投降を呼びかけられた。「これから何分間か艦砲射撃を止めるから、
泳いできてください」捕虜になった人は、「アメリカ軍は絶対殺しません。怪我した人
には病院もあります」と。みんな行くなというのに、泳いでいった人がいた。そしたら、
何のことない味方の陣地からバンバン銃を撃った。卑怯者ということでしょう。すると、
アメリカ兵がボートを出して助けたんです。どっちが敵で、どっちが味方ですか…。>
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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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