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飢えたるこどもたち (5)

暮らしの手帖 96号 特集・戦時中の暮らしの記録」(1968年8月)
掲載の「飢えたるこどもたち」から引き続き転載します。今回が最
終回です。 ●おやつがわりの食塩

昭和二十年三月末、芝区立白金国民学校二年女
子十九名は、岡本先生、大石良江保母に附き添わ
れ栃木県塩谷郡藤原町川治温泉柏屋ホテルに疎開
をした。

当時八才ニケ月だった私の記億に残ることは食
べ物につながることぱかり。 

山に食草を探し廻ったこと、かんぞうの芽のお
ひたし、わらび、ぜんまい、とりあし等、生れて
初めての経験に大喜ぴ、山の畑で間引いた馬鈴薯
の芽まで油いためをして食べたりした。

麦八分、米二分位のごはんがのどを通らず、と
うとう血便が出る程の栄養障害を起こして、養護
室のご厄介になること二週間。たった八才ぱかり
の女の子達が小さな胸にシット心を燃やし、先生
の愛をむさぼり合い、ボスが出来上り皆で彼女に
仕える様な日々から解放された二週間、一対一の
看護とほっぺたが落ちそうにおいしいカボチャの
油入り煮つけで、すっかり元気百倍! 山にマキ
の切り出しに出掛げられるようになり、背丈程も
ある丸太を背に運んで歩いた。

いつの頃だったか、兵士達の宿泊が続き、カン
パンにコンベイ糖の入った袋のプレゼントがあ
り、うぱい合うようにして食べた。

特にやせて小さかった私を哀れんでか、廊下の
すみでコンペイ糖を握らせてくれた兵士。お礼に
「花吹雪」のおどりを踊った記憶は、戦後、米兵
にガムをもらい、サンキューと礼をいったことと
同様、ほろ苦い哀れさがっきまとう。

軍服を着ない宿客もあった、幾人も集まっては
遅くまで飲んだり食べたりしていた。宿の下を流
れる鬼怒川でつったおいしそうな魚は、この人達
の食卓にのるのだと聞いていた。いったいこの人
たちは誰だったろう。

料亭をしている母親から時々甘味が送られてく
る子がいた。中でも角砂糖が圧巻で、みんな蟻の
ようにむらがっては、こびて一つ二つともらった
りした。

私は食塩を「これはうまい」という名のふりか
げのびんに入れていた(ふりかけはとっくに失く
なっていた)。旅館の庭石のカゲにたむろしては、
掌に塩をのせてなめた。塩は口の中にかすかな甘
味を感じさせる。毎日少しづつ舌の先でため、と
うとうピンの底がみえて「もうあげない」と友達
に宣言した。

或日、同室の女の子たぢが相談した。「家に帰
ろう、小遣を出し合って切プを買おう、買える所
まで行って、あとは線路を歩いても家に帰ろう」
朝食が済んで、授業の始まる前にこっそり抜け出
して行った。前日、足の指をケガしてしまった私
はついて行かなかった。

友人達が新藤原駅へとひた走っていた頃、旅館
中は大騒ぎ、青くなった先生と、事の重大さに驚
き、これまた青くなった私が門をころげ出た時、
途中で出会った宿の女中さんに叱りつけられなが
ら帰って来た友人達とぶつかった。「お母さん、
お母さん」としゃくり上げている子たち、ただ東
京に帰りたい、母に逢いたいと、キップを買う金
もなくかけ出していた八才の女の子たちに、「遠
い南で戦かっている兵隊さんのことを考えろ、東
京で空襲から家を守っているお母さんたちのこと
を考えて、皆もガマンをしろ」と先生の話。ガマ
ンを強いられている子たちの間で、自慰をはじめ
る子も出て来た。

毎日、温泉に入って、週二回は洗髪をしている
のに、シラミが沸いた、黒い頭のシラミは寝てい
てもカユク、起き出してはくしで髪をすいた、パ
ラバラと落ちた奴を指先でぱちんとつぶす。毛じ
らみはみつけるのが楽しく、肌じらみは白くみつ
けにくかったので憎かった。

父親戦死の報を受けて、独り帰る子もあった。
私の父も三度目の出征がきまり、超満員の電車に
ゆられて数日帰宅した、浅草を降りて、一面焼野
原の中に人だか材木だかごろごろしていたのに驚
き、昼夜をわかたない空襲に一夜中ぐっすり寝ら
れることの幸せを身にしみて感じた。

新鮮なトマトが時々食卓を騒わして、毎日スイ
トンが出る日が多くなって来た、母がやっとの思
いで面会に来て呉れた時の喜こび、別れる時の母
の涙がいつまでも心にのこった。

八月十五日、昼寝をしていたのに、たたき起さ
れた。大広間に整列させられ、天皇陛下の声が聞
えて上級生も先生も泣いていた、私はただ暑くて
眠むかった。早く終ればよいと思っていた。あと
で戦争は敗けて米軍がのり込んで来る、家に帰れ
るかどうか判らないと聞いた。早く帰りたい、家
に帰って、母のつくったカレー・ライスを思いき
り食べたいと思った。

私が家に出した手紙はいつも最初から終りまで
食物のことが書いてあったと、母は淋しく笑うの
だった。 (T.M. 武蔵野市)
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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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