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昭和からの遺言(大田昌秀)

週刊朝日の今週号(11/28)の連載記事「昭和からの遺言」に、大田
昌秀・元沖縄県知事のインタビュー記事が掲載されています。その中
から戦争体験を語っている部分を引用します。

 私たちは、まるで試験管の中で純粋培養されるような格好で皇民化
教育を受けました。沖縄では、昭和初期に社会主義運動が弾圧され、
その後は「国体の精華」以外について書かれた本は読むことすらでき
なかった。「水際作戦」といって、危険なイデオロギーと判断された
書物は、島に入港する船の中で取り締まって、一切上陸させないとい
う政策をとっていたわけです。

私は師範学校の図書室で、どこを見ても「国体の精華」をうたった
本ばかりなものだから、近くに先生がおるのも知らず、つい「みんな
同じ本ばかりでつまらんな」と、独り言を呟いたんですね。そしたら
書棚の裏から先生が出てきて「貴様なにを言ってるんだ ! 」と、顔
を殴られたことがあります。

本土ならば密かに他の思想書に触れることもできたのでしょうが、
私たちは文字通りの純粋培養で、聖戦に疑義を持たず、純真に皇国の
ための戦いを信じ込んでいたんです。

昭和9(34)年に、当時の沖縄連隊区司令官石井虎雄大佐が陸軍次
官に送った、沖縄防備対策という機密電報が、防衛省の防衛研究所に
残っています。その対策の一項目に、戦争になった場合、沖縄県民を
厳重に監視すべし、という趣旨のことが書かれているんです。琉球は
かつて独立国だったから、天皇や日本のために命を捧げる意識が、本
土他府県に比べて著しく劣っていると言っているわけです。

それで昭和19年に着任した牛島満司令官は、「軍官民の共生共死」
「一木一草も戦力化すべし」という訓令とともに、「防諜活動には特
に注意すべし」と述べたのです。

この訓令を具体化したのが、昭和20(45)年3月、極秘裏に結成さ
れた国士隊でした。県会議員や学校長、医者に農協長といった地方名
士約30人で結成されたこの隊の目的は、反軍的だったり非戦闘的な言
動をしたりする人たちを見張って、軍司令部に密告して処刑させる役
割だったんですね。

4月に米軍が沖縄本島に上陸すると、沖縄守備軍司令部の軍会報に
「軍人であろうと非軍人であろうと今日から日本語以外で話すのを禁
じる」という命令が掲載されました。沖縄方言で話をする者は間諜と
して処分するというんですね。当時、沖縄の60代以上の人のなかには
方言しか話せない人たちがいた。まして戦場という極限状況下では、
生活になじんだ言葉しか使えませんよ。それなのに、方言を使ったか
らスパイだと決めつけられ、処分された人がたくさんいたのです。

米軍から食料をもらった避難民をスパイという口実で集団虐殺した
記録もあります。そのとき、まだ口の利けない1歳2ヵ月の幼子までス
パイだといって殺しているんですね。

牛島司令官の訓令にあった“共生共死”なんてなかったんです。住
民の蓄えた食料を銃で脅して奪う兵は後を絶ちませんでした。これが
集団自決に緒びつくわけです。沖縄県民には軍との“共死”しかなか
った。

摩文仁の戦場で、東京文理科大学を出た「白井さん」という兵長と
会ったんです。普通、大学を出ているとすぐに将校になれて、当番兵
がつくわけですよ。それなのに兵長のままで、軍隊は嫌だと言って、
戦場にまでウェブスターの英英辞典を持ってきている人でした。

8月の下旬でしたか、米兵が占領する摩文仁集落のテント小屋から
英文の雑誌を拾ってきたんですね。日本軍の敗残兵はそこへ行って食
料を奪っていたんです。拾ったのは「LIFE」でした。白井さんは、
それをすらすらと読むと、「ポツダム宣言を受諾すると書いてある。
日本は負けたよ。ただし、負けたと言うと2人とも殺されるから、一
切その話はするな」と口止めされたわけです。

あとで振り返れば、8月15日の祝砲だったのでしょう、沖合いっぱ
いの米軍艦船から赤や黄色の花火みたいな砲弾が猛烈に上空に打ち上
げられた日があって、周囲の敗残兵は「特攻隊が反撃に出た」と言っ
て喜んでいました。そんな状態でしたから、負けたとは言えなかった
のです。

白井さんから「戦争に負けた」と知らされたときは、本当にショッ
クでした。それは戦争に負けた悔しさではなく、私自身の無知を知ら
しめられたショックだったんです。その白井さんが一言、「君がもし
生き残ることができたら、東京に来て英語を勉強しろよ」と言ってく
れたんです。

とはいえ、わずかな食料のために友軍同士が殺し合う光景を毎日の
ように見ていたものですから、すっかり人間不信に陥っていて、戦後
しばらくは、やけっぱちなその日暮らしをしていました。住むところ
もなくて、嘉手納基地でバーテンダーをやったこともあります。そん
なときに、沖縄民政府の文教部にいた先生から、密航船が運んできた
憲法のコピーを見せてもらったんですね。憲法前文や9条を読んだと
きは、本当に感動したんですよ。ちびた鉛筆をもらって、米兵の食料
を包んでいた箱に書き写したものです。

白井さんの一言で学ぶ喜びを知り、新憲法が人間味を取り戻すきっ
かけとなったのです。

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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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