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ある「大陸の花嫁」の引揚げ体験

ある「大陸の花嫁」(満洲開拓移民に嫁いだ女性)の娘さんから、お
母さんの旧満州からの引揚げ体験記を寄せていただきましたので、以
下転載させていただきます。


「戦争が激しくなり、開拓団は疎開する、3日分の食糧を持って只ち
に集合」・・・との事

これは、昨年 (2007)89歳で亡くなった母が生前書き遺してくれたも
ので、昭和20年8月8日満州から、佐世保港に上陸するまでの出来事
です。母は「大陸の花嫁」として昭和14年に満州に(東安省密山県東
光村佐賀屯)渡りました。

ここからは母の引き揚げ当時の記録です。

久しぶりに朝から日本晴れのよい天気、押入れの物を出し、馬3頭を
放牧し、ハクレグ(鶏)を20羽出し終えた時「カンカンカン」と金の
音、出てみると、あちら畑の方から人が飛んできます。

娘を(3歳半)連れて走りました。ソリに乗り二頭の馬のついたソリ
は、とぶように走ります、ソリはゆれます。

駅につきました、汽車は石炭車で一ぱい人を乗せていました。一寸の
すき間もありません、私は泣きだしそうになりました。

兵隊さんが娘をおぶっている私を、わし掴みにして、人の頭の上にほ
ーリあげてくださいましたので、汽車に乗ることができました。

ゆっくり走っていた汽車が、3分位行った時「ピカッ」と大きな光も
のがしたので、みんな頭をふせました。

そのあと「ゴーッ」とすごい音がします、そーっと頭を上げてみると、
今離れたばかりの駅がボウボウ燃えて・・・

その後汽車の前輪がもえ、娘を連れて飛び降りました。命がけのとび
おりでした。

また汽車に乗り、私のすぐそばの柳ごーりの中に、空からの爆弾だそ
うで未だはれつしていなかったから・・・

15日に着いた所(新京)で敗戦を聞く、収容所に入れられ、夜は毎晩
若い女の人が4.5人ロシヤ兵から呼び出されるのです。

私はそれが廻って来なかったから良かったのですが、今思えば・・・。
収容所の夜は恐ろしいだけ、眠いのを我慢しふるえていました。

カンパンが4つずつ配られ1日3回足りません、道に生えてる柔らかい
草を・・・みんなお腹をすかしていますので、夕方にじゃが芋畑にで
かけ、ロシア兵2.3人が現れ「腰のものはピストルだろみせろ」と
いいます。

恐ろしいやら、恥ずかしいやら、しぶしぶ帯をとき着物を開けました。
私は妊娠7か月で腹帯の結び目が丁度ピストルと思っていたのでしょ
う。許してくれました。後で聞きましたがロシア人は、妊婦には絶対
手をかけないそうです。

ある日の事、娘が元気がなく熱もだいぶあり、軒下でもいいから娘の
看病をしたいと思い、収容所を出ました。

自分も7か月目(妊娠)に入ったので、今まで途中体に無理したから、
お産が早いかも知れないと思うと・・・

露天がならんでいて、片っぱしから頼んでみましたが、誰一人私の事
かまってくれる人はいません。

最後の一人の人が天理教会を案内して下さいました。(満州新京崇知)
会長さんは女の布教師(大分県別府市出身の橋本様)の方でした。そ
この飯炊きに入ったのです。

娘は部屋に寝かされ、薬一服もありません。悲しくて悲しくて・・・
(3歳の娘は高熱と極度の栄養失調)娘の所に行ってみますと、「ハ
ーハー」とかすかなうめき声で返事をします。

「おっぱいやろか」と言うとうなずいたようでしたので、私は一生懸
命出ない乳をしぼっていたら、一しずく口の中に落ちました。

それを「ゴクツ」と吸んだと思ったら、頭の力が抜けたようでした。
その時が終わりでした、20年10月30日が亡くなった日です。

もう、涙も出ません、4歳にもならない娘を2か月の間引きずり廻し
てきたんですもの、ごめんなさいね・・

娘の爪や髪の毛を切って一緒に東本願寺の境内に葬ってもらいました。

ある日教会のベランダから下をみると女の人がロシア兵2.3人に引
きずられて行かれるのを見てしまいました。

毎日いやな日が続きます、20年1月30日の朝ごはんを炊いていまし
た、急に腹がつっぱってきて「おぎゃー」と産まれる。

それはそれは大混乱・・・子供を取り上げてくれる人、お湯を沸かす
人皆さんにお世話になること・・・

いよいよ満州から引き揚げの時がきました。

亡くなった長女の遺品(爪と髪)と赤ん坊の命名を大事に持って、人
の流れに混じりながら汽車に乗り船に乗る・・・

やっと佐世保港に着く(21年9月20日)着いた時身体検査があり、コ
レラ菌を持った人がいて、陸には上がれず2週間も船の中にいました。

佐世保駅だったと思います、イリコの入った雑炊を食べさせてもらっ
たあの味は、いまでも忘れられません。
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母が80歳の頃に書いたものと思われます。母の満州引き揚げ体験の苦
労は、亡くなるまで60年間続いておりました。老いて認知症になって
からも、引き揚げ当時の事ははっきりと記憶しておりました。

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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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