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「憲法九条を守ろう」の絵馬

ema

この絵馬はどこの神社に掛かっているのでしょう?

答えは靖国神社です。少し前の写真ですが、「憲法九条を守ろう」と書いた絵馬は、次のサイトにあるように、けっこうあるようです。遊就館にもスローガンとして大きく掲げたらいかがでしょう?

憲法九条守れの絵馬が
下の「 RE: 憲法九条守れの絵馬が」をクリックすると、何枚かの絵馬の写真が見られます。

樺太先住民族の戦争(下)

シベリヤから運よく生還したウィルタ人の一人にダーヒンニェニ・ゲ
ンダーヌ(日本名:北川源太郎)という青年がいました。

彼はサハリンへ帰ることができず、北海道の網走へ移住し、肉体労働
で生計をつなぎつつ、少数民族の軍人恩給支給問題を国へ訴えました。
1976年、この問題は国会においても論議されましたが、当時の少数民
族に日本国籍はなく、兵役義務もなく、非公式の令状にて召集された
として、彼らに戦後補償が与えられることはありませんでした。

1976年5月13日の参議院内閣委員会における小笠原貞子議員(共産党)
の質問から、ゲンダーヌ(北川源太郎)氏の特務機関・シベリア抑留
時代を紹介した部分を引用します。

< 当時この北川源太郎氏は十八歳の青年でございました。この人た
ちも召集を受けまして、そして軍事教練、遊撃戦術教育、全く軍人と
同じ教育を施され、しかも戦陣訓、軍人教育、いわゆる軍人勅諭とい
うものをたたき込まれました。そしてその間言われたことは、この戦
争中南方では台湾の高砂族ががんばっている、おまえらも負けずにが
んばれと、こういう上官の中野学校卒業の将校らが指導したわけです
けれども、叱吃されて、そして北緯五十度、広大なツンドラ地帯で、
忠実に、実に忠実に任務に従ったわけです。上官の命令で、あるとき
はソ連領側にいる同族らを拉致してきたり、殺害するといったような
ことまでやらされておりました。この間オロッコ族はほとんどばらば
らになるという目にも遭いましたし、北川さん自身もお母さんを失う
というようなことになりました。
終戦になりました。北川さんは仲間とともに日本軍人としてスパイ
容疑で諜報活動していたということでソ連軍につかまって軍事裁判を
受けて、そしてその結果、重労働として八年の刑を受け、シベリアに
八年間抑留をされていた、こういうことでございます。そして昭和三
十年、北川さんは刑を終えてやっと復員してきたわけですけれども、
日本の戦犯になったということでございますので、気がひけて自分の
ふるさとであるオタスの森にも帰られないというわけで舞鶴に引き揚
げてまいりました。そのとき北川さんに手渡されたものは毛布五枚と
下着、米穀通帳の引きかえ券、当座をしのぐ一万二千五百円というお
金だけでございました。これが北川さんの人生の十八歳から十三年間
ふるさとを失い、貴重な青春を棒に振った代償でございました。>
参議院会議録情報 第077回国会 内閣委員会 第4号

この問題が起こったとき、扇元少佐は神戸からわざわざ網走までゲン
ダーヌ氏に会いに行き、「私があのとき責任を持って召集をした、た
いへん苦労をかけていまなお解決できない、まことに申しわけなかっ
た」と詫びたそうです。

このゲンダーヌ氏の告発をきっかけに、1975年に「オロッコの人権と
文化を守る会」(翌年ウィルタ協会と改称)が発足、資料館の建設、
慰霊碑の建立、樺太の同胞との交流など、ゲンダーヌ氏は少数民族の
復権に努めました。

多くの人の寄金で建てられた慰霊碑は、網走市に「静眠の碑」、サハ
リンのポロナイスク市(旧敷香)に「北方先住少数民族戦没者慰霊碑」
があります。
ウィルタ協会:慰霊碑の建立

神戸護国神社に建つ「北方異民族慰霊之碑」は、建立の趣旨を記した
石碑がしゅろの葉の陰に隠れてまったく見えず、その由来を誰に知ら
れることもなく、ひっそりと建っているように見えます。


樺太先住民族の戦争(上)

MLのオフ会で神戸護国神社を訪ねた際、建ち並ぶ戦友会の慰霊碑
の中で、ひときわ大きく、異彩を放っている「北方異民族慰霊之碑」
というのが目を引きました。

この「北方異民族」というのは、かつて日本の領土だった南樺太(現
サハリン)の先住民族であるウィルタ人(オロッコ人)やギリヤーク人
のことを指しています。戦前・戦中はそう呼称していたのでしょう。

戦前から日本陸軍はソ連軍の動向を探るため、国境を接した南樺太に
陸軍中野学校出身者を中心とした特務機関を設けていました。戦争が
激しくなってきた1942年、樺太の陸軍特務機関は先住民族の青年を召
集、対ソ連の諜報活動に従事させました。

日本の敗戦後、彼らは置き去りにされ、そしてソ連によって戦争犯罪
人としてシベリアに送られ、多くの人が強制労働や飢えのため亡くな
りました。幸い生き残った人の中には、故郷サハリンへ帰ることが叶
わず、国籍もないまま日本へ引き揚げた人も多くいたようです。

元樺太敷香(しすか)陸軍特務機関長だった扇貞雄元陸軍少佐は、シ
ベリアに散った多くの部下を悼み、「日本のために殉じた異民族の慰
霊は私がしなくて誰がする」という執念から、復員後起こした会社が
倒産の危機にある中で、この慰霊碑を建立しました。

兵庫県出身でない樺太先住民たちは、この神社には祀られていないと
思いますが、扇氏は戦後神戸市でずっと会社を経営していましたので、
この神戸護国神社に慰霊碑を建てたのでしょう。
      
    ―つづく―

ireihi

硫黄島で戦死した兵士の遺品、ご遺族へ

f064.jpg

昨年8月お知らせしました戦争遺留品の日章旗(F064)が、先月福島
県のご遺族に返還されたことが分かりました。

この旗は、アメリカ・オハイオ州のグレゴリー様ご夫妻からご依頼が
あったもので、奥様の父上である故フレッド・ラーソン元中佐が硫黄
島から持って帰られたとのことです。

厚生労働省の調査では、元の持ち主の小山三郎様は新潟県出身、栗林
忠道師団長指揮下の独立歩兵第309大隊の軍曹でしたが、硫黄島で戦
死されました。

厚生労働省へ調査を依頼した場合、ご家族が判明した際は、ふつうそ
の住所・氏名の連絡があり、現在の所有者から遺留品を直接送っても
らうのですが、今回のケースは厚労省を通じて返還するよう指示があ
りました。

しかし返送後2か月近く経っても梨の礫で、こちらから問い合わせて
初めてご遺族が受け取ったことが分かりました。今まではこんなこと
がなかったのですが、今回はアメリカ人夫婦のせっかくのご厚意に対
し、残念ながら日本のお役所仕事の恥をさらす結果となってしまいま
した。

サイパン島飛行場に並ぶB 29

昨日ある人から見せていただいた1枚の写真に、思わず息を呑みまし
た。

それはサイパン島の飛行場に整列したB29の写真でした。あの日本各
都市を空襲し、原爆も投下したB29が,何十機も数え切れないほど並
んでいるのです。

B29は太平洋戦争勃発後、1943年から生産開始されましたが、終戦の
年の1945年までに、3970機も生産されました。日本ではもう爆撃機な
ど製造する余裕はなかった時期です。

その写真がネットにアップされていましたので、ご紹介します。まさ
に彼我の国力・戦力の差を見せつけられる、象徴的な写真です。

Aerial view of B-29's on taxiway, massed for takeoff from
Saipan.



「村山談話継承」発言にネトウヨ失望噴出

麻生首相は2日の衆院本会議で、「村山談話」を踏襲する、と発言し
ましたが、ネットではいわゆるネトウヨ(ネット右翼)たちが「失望
した」「裏切られた」「次は民主党に入れる」などと、いっせいにこ
れを非難しています。

首相の『村山談話継承』発言 ネット麻生ファンに失望感噴出
( J-CAST ニュース、3日)

過去の日本が、朝鮮や台湾を植民地支配し、中国などを侵略して、多
大の迷惑をかけたことは疑うべくもない事実であり、首相の盟友で、
自民党保守派の代表格でもある中川昭一財務相ですら、村山談話につ
いては「朝鮮半島を植民地支配したのは歴史的事実。中国に対しても
宣戦布告をせずに奥地まで戦線を拡大して侵略した 」とかつて語っ
ています。

こういう「ネトウヨ」諸君は、歴史をまったく学ばず、ただ情緒的に
「日本は正しかった」と信じ、「強い日本」にあこがれているだけだ
ということがよく分かります。

帝国陸軍の戦略と国府軍の戦略

今読んでいる本に、蒋介石の次男である蒋緯国が語った興味ある話が
ありましたので、ご紹介します。

蒋緯国という人は実は養子で、実母は日本人です。蒋介石に育てられ、
ドイツで軍人教育を受け、日中戦争や国共内戦で国府軍の指揮を取っ
た軍人です。

その蒋緯国に、作家の保阪正康氏が1992年に台湾で会ったとき、彼は
こう言ったそうです。

「日本の軍国主義が最終的につぶれていくというのは完全に私たちの
予想の範囲のなかにありました。中国に攻めこんだ国ががどういうふ
うにつぶれていくかというのは歴史のなかでぜんぶ証明されているの
に、そして私たちはその戦略をもっているのに、日本軍はそのとおり
に入ってきた。あなたたちは、南京から重慶、成都へと日本軍が得々
と侵略して入っていったというでしょう? 違いますよ。あれは私た
ちがずうっと引きずっていったんですよ。引きずって引きずって、そ
して補給が絶えたときに敵は自然に崩壊するというような作戦だった
んですよ。私は半分、日本人の血が入っていますけれども、日本軍国
主義を憎悪することにおいては共産主義の比じゃありませんから」
(保阪正康+半藤一利「『昭和』を点検する」)

当時の帝国陸軍は、“支那”など一撃の下に倒せると安易な考えで戦
争をおっぱじめました。いわゆる「対支一撃論」です。そして首都の
南京を陥落させた時、これで中国は手を挙げるだろうと考えていまし
た。

私はまだ幼児でしたが、南京陥落を祝う提灯行列を見て、喜んでいま
した。もちろん子供だけでなく、大人も、政治家も、軍人も、そして
大元帥陛下も、連戦連勝に酔いしれていました。

「あの戦場を語り継ぐ集い」を聴く

去る9月28日に開催されました第2回「あの戦場体験を語り継ぐ集い」
で語られました22人の元兵士の生々しい体験談を、下記で聴くことが
できます。

http://www.tv.janjan.jp/movie/shiminkisha/0809300409/s0809300409_a_1.php

麻生首相、「大東亜戦争」と表現

麻生首相は昨日、首相官邸で記者団から過去の戦争観を問われ「日清、
日露(戦争)と、いわゆる“大東亜戦争”、第2次世界大戦とは少し
種類が違うと思う」と語りました。

麻生首相、『大東亜戦争』と表現 戦争観問われ」(朝日、1日)

「大東亜戦争」というのは戦争中の正式呼称ですが、今では「太平洋
戦争」というのが一般的で、政府でも使われています。今でも「大東
亜戦争」を使うのは、主として戦争中と変わらない歴史認識を持って
いる人のようです。

首相は今国会の所信方針演説の冒頭でも、「かしこくも、御名御璽を
いただき、第92代内閣総理大臣に就任いたしました」と述べ、さすが
“臣茂”の孫と揶揄されました。「ぎょめいぎょじ」と聞いて、分か
らなかった国会議員もいるのではないでしょうか?

麻生首相:所信表明 『選挙演説』色濃く 民主の『弱点』挑発
(毎日、29日夕刊)

本当は自分も「臣太郎、かしこくも…」と言いたかったのかもしれま
せん(そういえば、「臣慎太郎」と記帳した人もいましたね)。

また首相はかつて、靖国神社の遊就館について「戦争を美化する感じ
ではなく、当時をありのままに伝えているだけ。当時はそうだったと
事実を述べているにすぎない」と語ったことがあります。

どうやら1940年生まれの麻生太郎氏は、「三つ子の魂百まで」のよう
ですね。

酒井均氏のご逝去を悼む

「戦争を語り継ごう -リンク集-」に掲載しています「私の東京陸
軍幼年学校」の作成者・酒井均様が、昨日お亡くなりになったとご子
息からメールをいただきました。

酒井均氏死去(岡山大名誉教授、東大海洋研究所元教授・地球化学)」
(時事、30日)

僅か数回のメールのやり取りのお付き合いでしたが、私のアドレスを
アドレス帳に残していただいていましたのは、「戦争を語り継ごう」
にも強い思いを懐いておられたことがうかがわれ、感銘を深くしまし
た。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

酒井様を偲んで、「私の東京陸軍幼年学校」から一節を引用させて
いただきます。


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プロフィール

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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