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「玉音放送」に関する聞き取り(1)

1945年8月15日の「玉音放送」を、どこで、どのようにして聞いたか、そのときの感想などについての聞き取り調査の内容を、Nさんから報告していただきましたので、以下3回に分けてご紹介します。

調査の対象は、Nさんの旧制中学および大学の同窓生で、終戦時中学上級生ないし旧制専門学校生や幼年学校生、少年兵だった人たちです。

(1) 滋賀県の山奥の疎開先で聞いた。
 当時、父は出征し、家族は、滋賀県の山奥へ疎開し、神戸の家には自分1人が住み、学徒動員で神戸の工場へ行っていた。
 8月10日ごろ、空襲で家も工場も焼け、家族が疎開している滋賀県まで逃げた(そのときの悲惨な状況は省略します)。
 玉音放送は、家で家族と聞いたが、雑音が多くてまったく意味不明。しかし、村の人々の話で、負けたのだということがわかった。すでに、それ以前から、敗戦は覚悟していたから、ヤレヤレ、ホッとしたという感じだった。

(2) 家で聞いた。
 学徒動員先は、機械が持ち込まれた中学校の学校工場。
 玉音放送の数日前に、米軍機からビラがまかれ、ポツダム宣言のことを伝えていたから、すでに敗戦を覚悟していた。
 玉音放送の当日は、午後の勤務で、放送は家で聞いた。よく聞き取れなかったが、前後の関係から負けたということは、ほぼわかった。初めはショックを受けたが安堵感も広がっていった。

(3) 家で聞いた。
 学徒動員は、山仕事で重労働だったが、適当にサボっていた。玉音放送は夜のニュースで聞いた。アナウンサーの説明があったので、敗戦がわかった。もし説明がなかったらチンプンカンプンだったと思う。明日は山仕事があるのか、ないのか、そればかり考えていた。玉音放送に関する感想は、ホッとしたということ以外、憶えていない。

(4) 当時、熊本陸軍幼年学校生徒。
 約10日間の予定で、海岸へ遊泳演習に行っていた。
 8月15日の夜、教官から「今夜から灯火管制をしなくてよい」と聞かされた。理由を言われなかったので「へえぇ。本当に大丈夫なの?」とみな半信半疑だった。しかし、戦局がかなり難しい局面を迎えていることは皆感じていたので、戦争が終わったらしいということがわかった途端、緊張の糸が切れ、なんとも言いようのない脱力感に襲われた。
 翌日、鉄橋が爆破されていたので、汽車を、何度も乗り継ぎながら帰校。まもなく大講堂に全生徒が集合を命ぜられ、主任教官より終戦の詔書奉読、わが国が米英支ソ4ケ国と和を結んだ旨聞かされた。自分の身よりも、日本の将来が心配だった。

(5) 当時、高知県の太平洋岸で陸軍少年兵。
 そのころ、高知沖へ米機動部隊接近という情報があったので、毎日、緊張の連続だった。玉音放送については、公式には何も聞かされていなかったが、噂は広がっていた。これはニセの放送だとか、軍の上層部の意見が割れているとか、いろいろな噂が錯綜していた。玉音放送と敗戦を、正式に聞かされたのは、3日後だったと思う。
 いろいろな噂のなかで、すでに覚悟が出来ていたので、敗戦を知っても大きなショックは受けなかった。瀬戸内海を渡って帰宅するとき、海の青さを見て、平和が来たと実感したが、はるかに見える陸上では、どんな惨状が起きているかと思うと、胸が痛んだ。

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プロフィール

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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