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「硫黄島からの手帳」故郷へ還る

先に 「『青年学校手帳』ご遺族に返還へ」でご報告しました戦争遺留
品(T016)の「青年学校手帳」が、このほど北海道のご遺族に返還され
ました。これを硫黄島で取得した元米軍兵士からハワイの孫に送られ、
その日本語教師である日本人女性が東京へ帰省の際に持ち帰り、さら
に北海道へ宅急便で送られたものです。

今回非常に順調に短期間で返還できたのは、MLメンバーである北海道
のNさんの迅速なご調査でご遺族の所在が判明したからで、改めてNさ
んのご協力に感謝の意を表するしだいです。

このように多くの人々の善意とご尽力で、唯一の形見であるご遺品を
63年ぶりでお届けできたことは、何よりの喜びで、今後のいっそうの
励みになります。今後とも皆さんのご協力をお願いたします。

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【講座案内】若者がつくる 戦争の記録

「東京都港区立男女平等参画センター・リーブラ」から、「若者がつ
くる 戦争の記録」という講座の案内をいただきましたので、転載し
ます。

全文を表示 »

朝日新聞連載「新聞と戦争」の書評

朝日新聞は昨年4月から1年間にわたって、自社の戦争協力を検証し
た「新聞と戦争」シリーズを夕刊に連載しましたが、それを1冊の本
にまとめて6月に刊行しました。その書評を赤澤史朗・立命館大学教
授が、朝日の書評欄に書いていますので、ご紹介します。

新聞と戦争  [ 著 ] 朝日新聞『新聞と戦争』取材班

「戦争を語り継ごう」活動二つ

今日の JanJan に、「戦争を語り継ごう」の活動が二つ紹介されてい
ます。

一つは7月24日から27日まで宮崎市で開かれました「原爆と戦争~宮
崎空襲展」にボランティアとして参加した高校生たちの話です。
軽い気持ちで参加しましたが…… ~『原爆と戦争 宮崎空襲展』~

もう一つは、戦時中集団自決が行われた沖縄・座間味島の老人たちか
ら戦争体験を聞き書きし、このほど20冊目の戦争体験記を出版した、
74歳のの元中学教師の話です。
集団自決の島の戦争体験を記録 座間味島出身の宮城恒彦さんが2
0冊目を発刊



新たな戦争遺留品(T017)

T017
アメリカの Peter Lord さんという方から戦争遺留品である一冊のノ
ートを返還したいという依頼がありました。市販のノートの表紙に
「第二十九期普兵射爆練習生 反省録 第一班 一整 一戸惣一」と
書かれており、海軍の兵士だった一戸惣一さんの物だったに違いあり
ません。

Lord さんはこのノートを約15年前にオレゴン州のアンティークショ
ップで見かけ、こういう物が売り物になっているのを見兼ね、ご家族
に返そうと手に入れたが、今までその手段が見つからなかったとのこ
とです。

ということで、このノートのそれ以前の入手経路はわかりませんが、
米軍の検閲済みのスタンプが押されていますので、どこかの戦場で米
軍が押収した物に違いありません。

ノートの中には昭和19年7月から9月の日付で、日々の訓練のことが書
かれていますが、心構えや取り組む姿勢のことばかりで、具体的な訓
練の内容はわかりません。ただ最後に下記のような14名の人(戦友?)
の住所が書かれていますので、何かの手がかりになるかも知れません。

大阪市東淀川区国次町   福中音吉
福島県石城郡好間村今新田 梶山早之介
仙台市原町小田原     小野清身
青森市博労町       佐藤正
岩手県気仙郡綾里村宮野  佐藤一
北海道上川郡剣渕村東二線 渡辺渡
静岡県三島市谷田     岩田正治
山口県玖珂郡柳井町中野区 大川?助
神奈川県愛甲郡萩野村本郷 石射春夫
茨城県稲敷郡長戸村塗戸  宮本政男
大阪府布施市上小阪一丁目 楠井要三郎
千葉県印旛郡土合村瀬戸  寺本清夫
横浜市磯子区寺前町    古屋又男
東京都小石川区小日向台町 小早瀬伊次郎

身銭を切ってまでこの遺留品をお返ししたいという Lord さんのご好
意に応えるため、ぜひ返還にご協力をお願いします。どんな些細なこ
とでも結構ですから何か情報がありましたら、お寄せください。

旧日本軍人の遺留品

終戦記念テレビ番組のご案内(2)

前回(8月7日までの分)の追加です。

★8月2日(土)21:00 ~ 22:50 テレビ朝日
原爆 63年目の真実
http://www.tv-asahi.co.jp/genbaku/

被爆体験の絵日記を出版へ

今日の朝日新聞大阪本社版朝刊は、広島市のふたりの被爆者が自身の
被爆体験を絵日記にした「ヒロシマ原爆の絵日記」を、それぞれ出版
すると報じています。

封印した被爆体験を絵本に、脚本家の励まし受け

絵の一部は下記でも見られます。
図録『少年・少女の原爆絵日記』の出版計画


映画「靖国」上映に爆破予告

一部の国会議員の横ヤリなどで話題になりました映画「靖国 YASUKUNI」は、その後全国各地でとくに妨害もなく粛々と上映されているようです。

ただし高知市では、去る21日に行われた自主上映会に事前の爆破予告がありました。しかしそれにもかかわらず、上映は挙行され、約1,100人の大入りで、とくに問題なく終わったとのことです。

今日のJANJANにそのルポが掲載されています。
爆破予告つき映画『靖国 YASUKUNI』を観たぞ!」

終戦記念テレビ番組のご案内(1)

今年もまた8月が近づき、テレビ番組にも「戦争を語り継ごう」の番組が増えてきます。今年もやはりNHKが中心ですが、取りあえず8月7日までの分を以下掲載します。


★7月26日(土)10:05~11:25  NHK 総合
NHKアーカイブス
1NHKスペシャル「紙の碑~被爆老人たちの手記~」
2記憶の扉「満蒙開拓団」
http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/next/index.html

★7月30日(水)0:10 ~ 1:40(29日深夜) NHK 総合
証言記録 兵士たちの戦争
「フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~」
「ガダルカナル 繰り返された白兵突撃 ~北海道・旭川歩兵第28 連隊~」
http://www3.nhk.or.jp/omoban/main0729.html#20080729011

★7月31日(木)0:10 ~ 1:40(30日深夜) NHK 総合
証言記録 兵士たちの戦争
「ニューギニア・ビアク島 幻の絶対国防圏 ~岩手県 歩兵222連隊~」
「沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場~山形県・歩兵第32連隊」
http://www3.nhk.or.jp/omoban/main0730.html#20080730001

★8月1日(金)0:10 ~ 1:40(31日深夜) NHK 総合
証言記録 兵士たちの戦争
「ペリリュー島 終わりなき持久戦 ~茨城県・水戸歩兵第2連隊~」
「インパール 食うに糧なく撃つに弾なく~新潟県・高田歩兵第58連隊~」
http://www3.nhk.or.jp/omoban/main0731.html#20080731002

★8月6日(水)総合 0:10~2:00 (5日深夜) NHK 総合
夏の特集 ヒバクシャからの手紙
http://cgi4.nhk.or.jp/feature/index.cgi?p=RDFqDQli&c=1

★8月6日(水) 20:00~20:50  NHK 総合
NHKスペシャル
見過ごされた放射線~原爆症63年目の真実~(仮)
http://cgi4.nhk.or.jp/feature/index.cgi?p=YBajENgl&c=1

★8月7日(木) 20:00~20:50  NHK 総合
NHKスペシャル
封印されたNAGASAKI~原爆を伝え続けるアメリカ人親子~
http://cgi4.nhk.or.jp/feature/index.cgi?p=gQnaNMHG&c=1

★8月7日(木)22:45~23:30  NHK 総合
ドキュメント 埋もれた地下兵器工場は語る
http://cgi4.nhk.or.jp/feature/index.cgi?p=fAcDSWsg&g=2


戦争遺留品(F063)をご遺族に返還

ほぼ1年前、皆さんに情報提供をお願いしました「遠見石仁平」名義
の日章旗(F063)の返還先が、厚生労働省の調査で判明し、このほ
ど静岡県のご遺族に返還されました。

この旗はアメリカのマイケル・オシェア氏の父上が南太平洋の戦場か
ら持ち帰ったもので、同氏から返還したいとの要望があったものです。

遠見石仁平さんは静岡県出身、歩兵第229連隊の伍長でしたが、ビス
マルク諸島ニューブリテン島にて戦傷死されました。幸い妹さんが静
岡県にご健在であることがわかり、60数年ぶりで故郷へお返しできた
わけですが、受け取った妹さんは目に涙を浮かべて感激されたとのこ
とです。

「玉音放送」に関する聞き取り(3)

最終回を掲載します。今回の証言者はいずれもNさんの中学の同級生で、当時は学徒動員により工場で働いていた人たちです。

(10) 舞鶴海軍工廠の2人

 8月15日の当日は、玉音放送のことなど、だれも知らなかった。ただ、何人かは、工場の指導員から、「戦争は終わったらしい」と聞いていたが、まさか降伏だとは思わなかった。翌日の朝、寮の大食堂で、海軍将校の訓示を聞いた。

   「戦争は終わった。日本が再び世界を制覇するまで、
    各自、自宅に帰って待機せよ」。

 数日後、トラックに鈴なりに乗って、舞鶴から福知山へ帰った。トラックに乗るなど、生まれて初めてなので、初めは、みんな、はしゃいでいた。
 「ラバウル小唄」の替え歌、「さらば舞鶴よ また来るまでは」と大声で楽しく歌いながら、福知山へ向った。 
 しかし、デコボコ道で、ものすごく揺れ、1人は、転落しかけて、片手でトラックのヘリにぶら下がり、みんなで引き上げた。それ以後、みんな、沈黙し、日本の将来はどうなるかと心配した。

(11) 綾部の郡是工場の3人

 8月15日は、盆休みで、全員、自宅へ帰っていた。
  * (あのころに、盆休みがあったなど、私は、初めて聞きました。
      舞鶴海軍工廠でも、私がいた福知山分工場でも、戦争末期
     には、日曜日の休み、盆休みは、ありませんでした)。

 3人とも、自宅または近所の家で、玉音放送を聞いたそうです。しかし、「日本が負けた」ということがわかったのは1人だけで、あとの2人は、「みんな、頑張れ」という意味だと思ったそうです。しかし、そのあとのニュースで、「日本は負けた」ということがわかったそうです。

 1人は、自宅近くへ工場疎開していた陸軍被服廠の陸軍将校が、自決したということを聞き、アメリカ軍がやってきたら、自分たちも自決することになるかもと心配したそうです。

 翌日、3人とも、郡是工場へ帰りました。
 工場では、みんなが、一人の生徒の話に耳を傾けました。彼は、開戦当初から、「日本は負ける」という大胆不敵な発言をしていて、みんなから恐れられていた生徒です。
 彼いわく:
 「鬼畜米英といわれているが、アメリカは、そんな国ではない。これから、日本は、復興のために頑張らなければならない。アメリカは、それを妨げないはずだ」。
 日本の敗戦を予告していた人物が言うことだから、その通りかもしれないと、みんな、安心したそうです。

次のサイトもご覧ください。
私の八月十五日

「玉音放送」に関する聞き取り(2)

引続き第2回を掲載します。

(6)学徒動員先の川西の飛行機部品工場で聞いた。
 8月初めごろ、ある工員さんが、アメリカ軍機が投下した伝単(ビラ)を、警察へ提出する前に、そっと見せてくれた。
 そこには、「日本の皆様」という見出しで、連合国は、ポツダムで、日本に対する共同宣言を締結したこと、および、その概要が書いてあった。
 8月15日、「重大な放送がある」という理由で、午前の作業を早めに切り上げて全員集合した。玉音放送だということがわかり、全員最敬礼をして頭を下げた。放送の中身はわかりにくかったが、私は伝単を見ていたので、日本は降伏したのだと思った。
 ほとんどの工員さんたちは、放送を聞いて首をかしげていたが、工場長は、玉音放送の中身を、あらかじめ知っていたらしく、「今日は作業を継続するが、後は連絡を待て」という指示を、冷静にテキパキとし出した。
 午後の作業で、同級生の1人がグラインダーで指2本を切断した。せっかく戦争が終わったばかりなのにと、口惜しかった。そのときに飛び散った赤い血は、今でも頭に焼き付いている。

(7)国鉄明石駅のホームで聞いた。
 当時、神戸工専の学生で、学徒動員先は網干の工場、寮生活。
 8月15日は、たまたま汽車に乗っていた。昼ごろ、汽車は明石駅で長い間停車。ホームで、最敬礼をしている人が何人もいた。何事ならんと尋ねてみると、玉音放送を聞いている人々だった。
 玉音放送は意味不明で、自分もふくめ、誰も、首をかしげていた。しかし、何か重大な内容だろうとは思った。敗戦かなという思いも、頭をかすめた。寮へ帰ってから、それが敗戦の詔勅だということがわかった。
 神戸工専の校長は、戦時中から、アメリカびいきといわれ、ルーズベルトというあだ名がついていた。そのために、八紘一宇の精神を早く切り替えて、平和な日本の建設に邁進せよ、目標は戦争ではなく平和建設だという、校長の発言は非常に重みがあり、みんな信奉していた。

(8)疎開先で自宅療養中に母が聞いた。
 学徒動員で姫路の造船所で働いていたときに骨折、家族の疎開先である篠山で療養していた。8月15日、重大な放送があると聞いていたが、家にはラジオがなかったので、母が集会所で聞いた。
 母は、「何のlことやら、さっぱりわからん」と言ったが、1人の人は、日本は降伏したのだ言っていたらしい。自分も、母が記憶していた断片的な言葉から、降伏ではないかと思った。その夜、近所人が、「ラジオニュースで、日本負けたと言っている」と報せてくれた。
 療養中は、物事を静かに考えることに馴れていたから、以前から敗戦は予想していた。父は軍人で出征しており、尼崎の家は空襲で焼けたから、戦後の生活が心配だった。
 玉音放送は、戦後、ニュースや映像で聞いたが、天皇の滑稽さと天皇に対する怒りを感じた。いまでも、そう思っている。

(9)学徒動員先の姫路の船舶部品工場で聞いた。
 玉音放送の前日、工場で、日本は負けたという噂が流れた。噂の根拠はわからなかったが、多くの仲間が否定する中で、数人は噂は本当だと言っていた。
 8月15日は夜勤で、昼は寮で寝ていたが、友だちに起こされ、日本は負けたらしいと知らされた。夕方、早めに工場へ行き、ラジオニュースで、敗戦を聞いて、やはり噂は本当だったのだと確認した。敗戦の噂は前の日から聞いていたから、大きなショックは受けなかった。
 あとで考えると、玉音放送で戦争が終わったことは良かったと思う。あの放送のおかげで、日本は、大きな混乱もなしに終戦を迎え、国の統一が保たれて、経済復興が進んだ。しかし、その後、天皇の人間宣言のときに、天皇が自分の責任を認めて退位していたら、もっと良かったと思う。

シンガポール人が見た憲法9条

昨日の日刊ベルタに、吉岡達也著「9条を輸出せよ!」(08年4月、
大月書店)の感想が掲載されています。

その中で、吉岡達也氏が共同代表を務めた9条世界会議(08年5月)
のシンポジウム「海外から見た憲法9条 ― 外国ジャーナリストが語
る」での符祝慧(フー・チューウェイ)氏(シンガポール「聯合早報」
東京特派員)の発言が引用されていますので、その一部をご紹介しま
す。

< シンガポールでは「日本軍」は恐いものと受け止められている。
かつての戦争で中国やシンガポールなど、アジアの国々を「日本軍」
が侵略し、駐留して沢山の人々を殺した。あのような戦争を体験した
人々にとって、「日本軍」というのは、非常に辛い思いがある言葉な
のである。戦後ずっと長い間「日本軍」という言葉が消えていたのは、
アジア諸国にとってはとても安心できることだった。 
私が言いたいのは、日本の憲法9条は戦争を放棄した世界で唯一の
憲法である。それを大事に守っていただきたい。それがアジアの願い
だということ。>

< 8月15日は、日本では終戦記念日だが、日本に侵略されていた
アジアの人たちにとっては「解放の日」である。中国に対する15年
にわたる侵略戦争、その他のアジア諸国に対する戦争は、今でも一部
の人たちが言っているような解放戦争では決してない。 
「憲法9条を変えてもいい」という人たちの多くは、日本による侵
略戦争を知らないか、または深く考えていないと思う。>

憲法9条を世界に輸出しよう 『9条大事に』がアジアの願い 安
原和雄

 
符祝慧氏の過去(06年3月6日)の発言もご紹介します。

<日本はアジアのリーダーになりたいようですが、それならばもっと
アジアに目を向ける必要があると思います。日本人にはいまなおアジ
アを蔑視するようなところがあります。相変わらず目が欧米を向いて
いる感じです。
戦後60年を過ぎましたが、私は、日本政府はアジアの国々を侵略した
ことを心から反省しなければならないと思います。日本国憲法9条は
日本のアジア侵略戦争への反省から生まれました。そして、日本が憲
法9条によって戦争を放棄し、軍事力を保持しないということで、不
戦の誓いを表明したことはアジアの人々を安心させたんです。いまア
ジアの人々は、日本は戦争を放棄したのに、何故いままた軍事力を欲
しがっているんだ、と不安を感じているんです。>

日本での憲法『改正』の動きへのアジアの人々の不安


元日本軍捕虜団体の会長、レスター・テニーさん

今朝の毎日新聞「ひと」欄に、このMLにも知己の方がおれれます、
元日本軍捕虜団体の会長、レスター・テニーさんが紹介されています。
テニーさんは、「バターン 死の行進」の生存者で、その後3年半にわ
たり三井三池鉱山で強制労働を体験した方です。

ひと:レスター・テニーさん 元日本軍捕虜団体の会長


湯川秀樹は原爆研究に関与せず

今日の朝日新聞大阪本社版朝刊は、戦時中京都帝大が行った原子爆弾
の研究に、ノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹博士はほとんど関与し
ていなかったという資料が発見されたと伝えています。

「『ユカワは原爆研究に関与せず』GHQ報告書、米で発見

関連情報―「京大での原爆研究の資料見つかる

「玉音放送」に関する聞き取り(1)

1945年8月15日の「玉音放送」を、どこで、どのようにして聞いたか、そのときの感想などについての聞き取り調査の内容を、Nさんから報告していただきましたので、以下3回に分けてご紹介します。

調査の対象は、Nさんの旧制中学および大学の同窓生で、終戦時中学上級生ないし旧制専門学校生や幼年学校生、少年兵だった人たちです。

(1) 滋賀県の山奥の疎開先で聞いた。
 当時、父は出征し、家族は、滋賀県の山奥へ疎開し、神戸の家には自分1人が住み、学徒動員で神戸の工場へ行っていた。
 8月10日ごろ、空襲で家も工場も焼け、家族が疎開している滋賀県まで逃げた(そのときの悲惨な状況は省略します)。
 玉音放送は、家で家族と聞いたが、雑音が多くてまったく意味不明。しかし、村の人々の話で、負けたのだということがわかった。すでに、それ以前から、敗戦は覚悟していたから、ヤレヤレ、ホッとしたという感じだった。

(2) 家で聞いた。
 学徒動員先は、機械が持ち込まれた中学校の学校工場。
 玉音放送の数日前に、米軍機からビラがまかれ、ポツダム宣言のことを伝えていたから、すでに敗戦を覚悟していた。
 玉音放送の当日は、午後の勤務で、放送は家で聞いた。よく聞き取れなかったが、前後の関係から負けたということは、ほぼわかった。初めはショックを受けたが安堵感も広がっていった。

(3) 家で聞いた。
 学徒動員は、山仕事で重労働だったが、適当にサボっていた。玉音放送は夜のニュースで聞いた。アナウンサーの説明があったので、敗戦がわかった。もし説明がなかったらチンプンカンプンだったと思う。明日は山仕事があるのか、ないのか、そればかり考えていた。玉音放送に関する感想は、ホッとしたということ以外、憶えていない。

(4) 当時、熊本陸軍幼年学校生徒。
 約10日間の予定で、海岸へ遊泳演習に行っていた。
 8月15日の夜、教官から「今夜から灯火管制をしなくてよい」と聞かされた。理由を言われなかったので「へえぇ。本当に大丈夫なの?」とみな半信半疑だった。しかし、戦局がかなり難しい局面を迎えていることは皆感じていたので、戦争が終わったらしいということがわかった途端、緊張の糸が切れ、なんとも言いようのない脱力感に襲われた。
 翌日、鉄橋が爆破されていたので、汽車を、何度も乗り継ぎながら帰校。まもなく大講堂に全生徒が集合を命ぜられ、主任教官より終戦の詔書奉読、わが国が米英支ソ4ケ国と和を結んだ旨聞かされた。自分の身よりも、日本の将来が心配だった。

(5) 当時、高知県の太平洋岸で陸軍少年兵。
 そのころ、高知沖へ米機動部隊接近という情報があったので、毎日、緊張の連続だった。玉音放送については、公式には何も聞かされていなかったが、噂は広がっていた。これはニセの放送だとか、軍の上層部の意見が割れているとか、いろいろな噂が錯綜していた。玉音放送と敗戦を、正式に聞かされたのは、3日後だったと思う。
 いろいろな噂のなかで、すでに覚悟が出来ていたので、敗戦を知っても大きなショックは受けなかった。瀬戸内海を渡って帰宅するとき、海の青さを見て、平和が来たと実感したが、はるかに見える陸上では、どんな惨状が起きているかと思うと、胸が痛んだ。

映画「未決・沖縄戦」

沖縄県名護市にある映画制作の会社が先月、県北部の沖縄戦体験者の
証言をまとめたドキュメンタリー映画「未決・沖縄戦」を制作し、D
VDを発売しました。

北部の証言映画に じんぶん企画『未決・沖縄戦』を制作」(琉球
新報、6月4日)

敵兵を救助せよ!(続)

06年7月に、太平洋戦争中多数の英海軍将兵を救助した旧海軍の駆
逐艦長、工藤俊作の行動を追った「敵兵を救助せよ!」という本が出版
されたとお伝えしましたが、昨年4月このエピソードがテレビで放送され
ました。

その放送のビデをが下記でご覧になれます。
「戦場のラストサムライ 知られざる奇跡 敵兵を救出せよ」
1 of 3 http://www.youtube.com/watch?v=wRcOmYgdp4E
2 of 3 http://www.youtube.com/watch?v=QByCyliKXcI
3 of 3 http://www.youtube.com/watch?v=Q_SbowJUWV4

たいへん感動的な話で、当時の海軍軍人としてはなかなかできないこ
とだと思います。これが日露戦争の頃だったら、帝国海軍の鑑として
広く喧伝され、教科書にも載ったかもしれません。

しかし“鬼畜米英”が叫ばれていた当時は、この美談は国民にはいっ
さい知らされていませんでした。もちろん大元帥陛下の耳に達し、
「武士道の誉れ」といったご嘉賞の言葉があったとも思えません。

工藤艦長はその後他の駆逐艦の艦長に転じましたが、その年の12月に
は海軍施設本部部員、翌年には海軍予備学生採用試験臨時委員を命じ
られ、さらに44年末から体調を崩し、翌年3月15日に待命となったと
のことで、この事件以降出世コースから外れたといえます。

彼は体格が良く柔道の有段者でしたが、性格はおおらかで温和であり、
艦内では鉄拳制裁を厳禁し、部下には分け隔てなく接したとのことで
す。ある意味で、当時の帝国海軍では少数派だったのかもしれません。

こういう“美談”を語り継ぐことは結構なことだと思いますが、同時にこの
ような“美談”が美談でなく、まったく隠蔽される世の中であったこともま
た語り継がねばと思います。

これをただ単に“美談”としてもてはやすのは、同時に当時の帝国海
軍や軍国主義に対する批判ということになるのではないでしょうか?

今年の5月、<この事績をひろく世界に向けて発信する事は、日本国
の国益としても大いなる意義があることと信ずるところであります>
という趣旨で、「故海軍中佐工藤俊作顕彰会」(会長:平沼赳夫)が
発足しました。

「故海軍中佐工藤俊作顕彰に関する趣意書

協賛にはなぜか、工藤元艦長が祀られてもいないのに靖国神社の名が
あります。パール判事と同じく境内に顕彰碑が建つのでしょうか。戦
後もずっと沈黙を守ってきたという工藤は地下でどう思っているので
しょう。


広島の爆心地の町並みをCGで復元

昨日の朝日新聞大阪本社版夕刊は、広島の映像作家が被爆前の爆心地
の町並みを復元するCGを作成した話を紹介しています。これを作成
するのに、約10年の歳月をかけ、165人の人にインタビューしたそう
ですが、実にリアルに復元されているようです。

原爆が奪った爆心地の街、広島の映像作家がCGで復元

このCGについては、下記の記事もご覧ください。
猿楽町 CG 完成 ヒロシマ以前、黒瓦のまち 日々の暮らし」(中
国、(02年8月2日)


新規リンクのお知らせ

「戦争を語り継ごう -リンク集-」に新しく次の2サイトを掲載し
ましたので、ご覧ください。

週報でみる戦時生活
戦時中の政府広報誌「週報」に見られる、1941~44年の戦時生活

昭和20年 そのとき北野は・・・
戦時下の、旧制大阪府立北野中学校の学校生活を語る。当時の先生と
生徒による座談会


「沖縄戦の全学徒隊」出版

沖縄の「ひめゆり平和祈念資料館」は、沖縄戦に動員された全21学徒
隊の証言や遺書を初めて網羅した資料集「沖縄戦の全学徒隊」をこの
ほど出版しました。

遺書に記す『生』への思い 全21学徒隊の資料集出版」(琉球新
報、8日)

記事の一部です。

< 資料集にはこのほか生存した元学徒隊員の生々しい証言も収録し
ている。元一中の男性は「絶対に捕虜になってはいかん」と言って友
人に手榴(しゅりゅう)弾を渡して死に追いやった日本兵がその後、
米兵に両手を挙げて投降した光景を見ながら「『畜生恥知らず奴が』
とくやしさがこみあげてきた」と記した。

また元沖縄師範鉄血勤皇隊の男性は憲兵が「慰安婦」の朝鮮人女性
4、5人に対し、スパイ容疑をかけられた女性を銃剣で刺すよう命じ、
女性が殺される光景を目撃し「今にして思えば、戦時の狂気であった
としか言いようがない」と記した。>

新たな戦争遺留品(F085)

F085

ブラジルに住む日本人女性が、アメリカ・ミネソタ州在住の娘さんが
近所の老夫人から戦争遺留品である日章旗の返還を頼まれたので協力
してほしいと言ってこられました。

書かれた寄せ書きから、元の持ち主は「井川末松」さんと考えられ、
その他、井川(初太郎、甚五郎、銀次郎、金一)、永井敏、榎易など
多数の署名があります。

この日章旗については拙サイト「旧日本軍人の遺留品」の「日章旗
(F051~ ) 」のページにに、F085として掲載しましたので、ご覧の
上、何か手がかりになるような情報がありましたら、ぜひお知らせく
ださい。

戦争末期の特高警察資料を発見

戦争末期、大阪府内の警察署が管内の被害や住民の動向を特高警察に
報告していた内部文書が、このほど見つかったと、昨日の朝日新聞大
阪本社版夕刊が報じています。

高槻市で極秘で掘っていた地下壕の建設現場にいた朝鮮人労働者の状
況報告や、軍需工場の稼働率、空襲にさらされた市民の肉声などが含
まれているとのことです。

太平洋戦争末期、うめく大阪 特高警察資料を発見

原武史著「昭和天皇」を読んで

原武史著「昭和天皇」(岩波新書、08年1月)という本をを読みました。
「宮中祭祀」に焦点を当て、昭和天皇像を描き出しています。

宮中祭祀というと古来伝統のものと思われがちですが、そのほとんど
は明治維新以降に作られたものとか。明治天皇や大正天皇はこの宮中
祭祀にさほど熱心でなかったのに、昭和天皇はなぜ熱心だったのか。
そこには、「神ながらの道」を信奉する母・貞明皇后の影響がありま
した。

このようなたいへん興味ある挿話も多いのですが、ここでは戦争との
関連の部分のみをご紹介します。

昭和天皇は戦争中も熱心に宮中祭祀を続けました。空襲が激しくなっ
て、住居を防空壕である御文庫に移した後も、その中で祈りを続けま
した。

戦況が深刻になっても、貞明皇后(当時の皇太后)は自らを神功皇后
に擬して「かちいくさ」を祈り続けましたが、昭和天皇はなかなかそ
の呪縛から抜けきれず、同じように戦勝を祈り続け、戦争終結を主張
する弟の高松宮の進言にも耳をかそうとしませんでした。

<だが昭和天皇が戦争終結を決断した究極の目的は、「三種の神器」
の護持にあった。>と著者は書いています。これ以上戦況が悪化すれ
ば「三種の神器」の確保すら危ないと考えたのです。

<天皇がこだわった「国体」の護持というのは、「万世一系」の皇室
を自分の代で終わりにしてはならないということであり、国民の生命
を救うのは二の次であった。>

私もかねてから昭和天皇が最終的にポツダム宣言受諾を決意したのは、
連合国側との折衝で“国体の護持”に見通しがついたからで、決して
自分の身や国民の生命を救うためではなかったと申し上げてきました
が、この本を読んでこの昭和天皇の決断の背景が理解できたように思
います。

あまり知られていない“お濠の内側”の昭和天皇に興味のある方には
お奨めの本と思います。

読売新聞の書評
毎日新聞の書評


新規リンクのお知らせ

戦争を語り継ごう -リンク集-」に新しく次の2サイトを掲載し
ましたので、ご覧ください。

十一歳の少女の戦争体験記
沖縄戦の戦火の中、父を失いながら一家で逃げまどった当時11歳の少
女の体験

初年兵の戦記
1944年12月現役兵として召集後ただちに中国戦線へ送られ、中国中部
での戦闘に参加、捕虜生活を経て復員するまでの体験記

「初年兵の戦記」によれば、筆者が属していた110師団はとくに軍紀
が厳しく、初年兵教育でも「焼くな、殺すな、犯すな」ということが
厳命されたとのことです。そのため敗戦後この師団から戦犯は出ませ
んでした。

帝国陸軍にもやはりこのように軍紀の厳正な部隊はありましたが、し
かし筆者も<しかし日本軍の他の部隊では、『焼くな、殺すな、犯す
な』とは裏腹な残虐行為が日常茶飯事的に行われていたという。>と
書いていますように、残念ながらそういう部隊は少なかったようです。

快楽としての戦争

毎日新聞の西部版に「平和をたずねて」というシリーズ記事が掲載
されていますが、昨日まで5回にわたって「快楽としての戦争」という
テーマが採りあげられました。

これは主として日中戦争の体験談や資料を例に、とかく悲惨さが強
調されがちな戦争の中には、「快楽」と言う側面もあったのではない
かと趣旨で取材されたものです。

< 戦争の悲惨さを強調する反戦は、悲惨さを実感できる体験者が
厚く社会に存在する間は有効だろう。だが体験者の多くが世を去り、
悲惨さの実感が社会から薄れた今、悲惨さだけに寄りかかった反戦
の訴えはもう、人々の胸に響かなくなりつつあるのではないか。

 悲惨さの実感がなくとも、戦争の誘惑に抗しうる社会はどうすれば
築けるのか。それを考えるために、戦争が持つ快楽の側面に、あえ
て光を当てる。>

下記のサイトで毎回の記事を読むことができます。
平和をたずねて  アーカイブ

カウラ捕虜収容所からの大脱走(テレビ番組)

1944年8月、オーストラリアの捕虜収容所で起きた日本人捕虜の
大脱走事件を題材にしたドラマ「あの日、僕らの命はトイレットペー
パーよりも軽かった-カウラ捕虜収容所からの大脱走-」が7月
8日(火)21時から日本テレビ系列で放送されます。

番組の公式サイトと関連の新聞記事をご紹介します。

公式サイト
カウラ捕虜収容所脱走事件 ドラマ化/『戦陣訓』の悲劇を問う
(しんぶん赤旗、6月22日)
「“虜囚の恥”が招いた悲劇 戦時中の『カウラ事件』描く」(東京、
6月26日)
「【インタビュー】脚本家・中園ミホ 日本人捕虜の悲劇ドラマに
(産経、3日)

ひばりの愛した反戦歌「一本の鉛筆」(続)

先稿に対しお二人の同世代の方から、あの新聞記事で「美空ひばり
を見直した」とのご意見をいただきましたが、私もそのひとりです。で
すからひばりファンという50代女性が書いた小笠原和彦著「ひばり 
平和をうたう」(時潮社、06年3月)の次の書評はちょっと耳が痛いで
すね。

<演歌のひばりが平和の歌、反戦のを歌うのが変だ、誰かの影響に違
いないという観点から出発をしている。ひばりファンとしてはまたか
という思いがする。そこには演歌は俗で、反戦歌やジャズはは高尚だ
という前提がある。戦争体験もあるひばりさんが、戦争はいやだとい
うのは、人間としてごく自然なことで、この歌も歌ったと思う。最後
のラジオ出演でも、「こころの歌」のコーナーで紹介しているし、テ
レビでも、舞台でも結構歌っている。いいものはいい。国境もジャン
ルもない。ひばりさんも、「歌はみんな友達」ということばで、その
思いと述べている。ひばりさんのことを書いた本を読むのではなく、
ひばりさんの作品をもっと見て欲しい。>

「【楽天市場】美空ひばり平和をうたう:楽天ブックス

しんぶん赤旗も、美空ひばりの戦争の恐ろしさを伝え、平和を訴える
思いを紹介しています。

< 「私は横浜に生まれました。幼かった私にもあの戦争の恐ろしさ
は忘れることはできません。これから二度とあのような恐ろしい戦争
が起こらないよう、皆様とご一緒に祈りたいと思います。いばらの道
が続こうと、平和のためにわれ歌う」

74年のときには、ひばりは、歌う前の口上でこう語って、一本
の鉛筆があれば、愛や命、平和への思いを書くと、3日前に作られ
たばかりの曲を熱唱します。>

美空ひばりが大切にした反戦の歌とは?」


ひばりの愛した反戦歌「一本の鉛筆」

今日の朝日新聞大阪本社版に、美空ひばりが自ら「好きな持ち歌ベス
ト10」に選び、「皆さんにぜひ愛していただきたい歌」と語ったと
いう、ヒロシマをテーマにした反戦歌「一本の鉛筆」についての記事
が掲載されています。

ひばりは幼少時、横浜大空襲に遭い、父が徴兵されるという戦争体験
を持っていました。

「ひばりの愛した反戦歌『一本の鉛筆』、もう一度広島で

この歌は YouTube で聴くことができます。
http://jp.youtube.com/watch?v=vu6eWArFrao

新学習指導要領解説書に関する社説

昨日お伝えしました新しい小学校学習指導要領の解説書について、今
日は新聞3紙が社説で採りあげています。

沖縄戦学習 力合わせ実りあるものに」(毎日)
< ただ、一片の通知が状況を変えるほどこの課題は簡単ではない。
今回、解説に原爆や空襲も初めて記された。戦争体験の意味や教訓を
次代へどのように継いでいくかは、年を追って難しくなりつつある。
継承や学習を実りあるものとするためには、知恵や工夫を寄せ合い、
実践を絶えず重ねていくことが必要だ。>

「『原爆』『沖縄戦』解説書 きちんと教える力培え」( 中国)
< 平和学習の経験のない若い教師も増えている。ベテランと若手が
知恵を出し合って、現場力を培いたい。そのための環境づくりも望ま
れる。>

新指導要領解説書 史実を正しく継承してこそ」(琉球新報)
< 先の大戦で米軍は、沖縄の10・10空襲をはじめ、東京や名古
屋などで国際法に反する無差別爆撃を展開。東京空襲では約10万人
の市民が死亡したといわれる。広島と長崎に「悪魔の申し子」と言う
べき原子爆弾を投下した。これら歴史的事実は、思想的解釈などはひ
とまず脇に置いて、正確に後世へ伝えていかねばならない。>

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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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