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戦時中の食生活(5)

引き続き、「暮らしの手帖 96号 特集・戦時中の暮らしの記録」
(1968年8月)から転載します。今回は勤め人の昼食の話です。

皆さんのご感想や同じような体験記をお寄せください。

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(5)雑炊食堂

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朗読劇「この子たちの夏 1945・ヒロシマ ナガサキ」再開へ

被爆した母子の詩や手記などをもとに、20年以上も、原爆の悲劇を伝
えてきた朗読劇「この子たちの夏 1945・ヒロシマ ナガサキ」は、公
演を主催してきた「地人会」の解散で、今後の上演が危ぶまれていま
した

しかしこのほど、長年出演してきた女優たちの手で引き継がれること
になり、「この子たちの夏の会」を結成して、今夏から公演されるこ
とになりました。会を作ったのは高田敏江、川口敦子、中村たつ、日
色ともゑ、柳川慶子、渡辺美佐子ら18人、ほぼ全員が戦争を知る世代
です。

「『この子たちの夏』つなぐ灯 女優ら18人公演へ結集」(朝日、
30日)


橋下徹氏の歴史認識

大阪府で全国最年少の知事が誕生することになり、関西のメディアは
昨日からこの話題で持ちきりです。

知事選で当選した橋下徹氏は、かつてテレビ番組の中で日本の核武装
を容認する発言をしましたが、今回“平和”を標榜する公明党の支持
を受けるために、「あれは話芸」と弁明しました。

過去の戦争についても、関西のテレビ番組の中で、従軍慰安婦の強制
連行や南京大虐殺を否定したり、中国の靖国参拝反対を批難したりし
ています。過去の発言から拾ってみますと―。

従軍慰安婦の強制連行について、
「ただ目の前の今の現状と、僕はこれ認めると、やっぱりその、当時
のね、軍人さんに対する、やっぱり侮辱だと思うんですよ。うちのじ
いさん、海軍だったんですけど、ずーっと死ぬ間際まで言ってたのは、
日本軍がそういうふうに女性を連れていって無理やりやったってこと
はないと」

南京大虐殺について、
「教育現場が変わらない限り、だめでは。未だに南京大虐殺とか、強
制連行とかやってる」

首相の靖国参拝について、
「だけどその、中国からは靖国で言われれば、またね、はいはいとな
り、で、またアメリカからこういうこと言われれば、はいはいと」

いわゆる冨田メモについて、
「天皇中心とする神道が日本の基本だと思う。僕も昭和天皇のお言葉
を重視する立場。だが、今、『天皇は象徴だ』とか言ってる人たちが、
天皇の言葉に政治的に左右されるのおかしい」
「昭和天皇が合祀ダメと言ったので、僕は首相の靖国参拝には反対し
ます」

どうやら橋下氏の信条は、国粋主義的なようですね。知事室にはご真
影を掲げるのでしょうか?

それを裏付けるかのように、、靖国神社の「みたままつり」の際に橋下
弁護士が献納したと思われる灯篭の写真がネットの中にありました。

hashimoto

戦時中の食生活(4)

引き続き、「暮らしの手帖 96号 特集・戦時中の暮らしの記録」
(1968年8月)から転載します。

(4)日の丸弁当

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「母べえ」を観て

一昨日封切られました映画「母(かあ)べえ」を観てきました。

映画の舞台となっている時代は、1940-41年(昭和15-16年)。ちょう
ど私が小学校1-2年生の頃ですが、2歳年上の山田洋次監督の演出です
から、時代考証にはまったく違和感を感じず、映画に引き込まれまし
た。

ストーリーはもうご存じの方も多いと思いますが、太平洋戦争が始ま
る前年、一家の主人を治安維持法違反ということで奪われた、ごく平
凡な学者の家族の物語です。

戦争へとひた走る軍国主義の荒波と、それに揉み砕かれる家族のほの
ぼのとした愛を対比させ、戦争反対だとか、平和だとかを、声高に主
張しているわけではありませんが、あの時代の底知れぬ恐ろしさがひ
しひしと伝わってくる映画です。

当時は子供でしたから、ごく単純に2600年の歴史を持つ“金鵄輝く”
神国を誇りに思っていましたが、実はまったく恐ろしい時代であった
ことを改めて思い知らされました。

それにしても、当時の子供のイメージにある、やさしくそして健気な、
若いお母さん役を見事に演じている吉永小百合の若さと演技力には脱
帽です。

戦争を知らない世代の皆さんにも、ぜひ観ていただきたいと、お勧め
します。

「母べえ」の公式サイト

以下このサイトから、山田洋次監督や私と同世代の人たちの感想を引
用します。



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戦時中の食生活(3)

引き続き、「暮らしの手帖 96号 特集・戦時中の暮らしの記録」
(1968年8月)から転載します。今回は農家の人の体験記です。

(3)糠の団子

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「南京の真実」完成披露記者会見

南京虐殺はなかったとする立場から、“反日プロパガンダ映画に対抗
する”ため作成された映画「南京の真実 第一部 七人の死刑囚」の
完成披露記者会見が昨日開かれ、自民、民主両党などの保守系衆院議
員8人が出席しました。

「『南京の真実』完成披露記者会見 保守系政治家が集結」(産経、
25日)

この映画は、南京事件70周年の昨年、米中などでそれに因んだ映画が
公開されたのに対抗して企画されましたが、資金難等で製作が遅れ、
三部作のうちやっと第一部が完成したものです。

なおちょうど1年前に開かれました製作発表記者会見には、12人の国
会議員が出席し、挨拶していますが、その録画を下記で視聴すること
ができます。

http://www.youtube.com/watch?v=i6GTlYEJO1k&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=zfX2AnJfbI8&feature=related

戦時中の食生活(2)

引き続き、「暮らしの手帖 96号 特集・戦時中の暮らしの記録」
(1968年8月)から転載します。

(2)豆ご飯


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戦時中の食生活(1)

06年5月に、戦時中の疎開児童たちの体験記「飢えたるこどもたち」を
ご紹介しましたが、今度は一般家庭における食生活の体験記「食」を、
同じく「暮らしの手帖 96号 特集・戦時中の暮らしの記録」(1968
年8月)から数回に分けて転載します。

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戦時中のラジオ放送

朝青龍の復帰で国技館もまた盛り上がっていますが、観客を入れず、
非公開で催された大相撲の本場所が一度だけあります。終戦の2か月
前、旧両国国技館での夏場所は国内が平静であることを海外に宣伝す
るための興行で、放送も海外向けだけだったそうです。

その実況放送を行ったのが、先日亡くなった藤倉修一さん。のちに著
書の中で、がらんとした館内で口角泡を飛ばしてしゃべっていた自分
を「悲しいピエロ」にたとえているとのことです。

編集手帳」(読売、23日)

ところで当時はもちろんテレビはなく、ラジオもNHKのみでしたが、
一体どういう番組が放送されていたでしょうか? 「暮らしの手帖」
1968年夏号から引用します。

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「秘録 沖縄戦記」に書かれた集団自決

今日のインターネット新聞 JanJan は、防衛研究所所蔵の沖縄戦関係
資料に付けられた「事実を捏造している」という所見について書いて
います。

その資料とは山川泰邦著「秘録 沖縄戦記」(読売新聞社、1969年)
を掲載した報道資料です。以下この記事の一部を引用します。

<『秘録 沖縄戦記』の著者は琉球立法院議長もした山川泰邦氏(故
人)である。序を書いた元早大総長の大浜信泉氏は「沖縄戦の当時、
著者は警察官として軍部とも協力すべき地位にあった。したがって学
徒隊をはじめ一般住民の戦闘参加の経緯と、その悲惨な最期について
も詳細に知りうる立場にあった」と述べている。そして「本書がはじ
めて明らかにした、いわゆるスパイ事件が暗示するように、当時日本
の軍部がいかに血迷い、それが戦争をいやがうえにも悲惨なものにし
たという点にあるといえよう」と述べている。

手許にある昭和44(1969)年12月1日発行の同書(第1刷)
の「渡嘉敷村民の集団自決」の項目を調べてみた。その148ページ
には「赤松隊は住民の保護どころか、無謀にも『住民は集団自決せよ
!』と命令する始末だった」と書かれている。また手榴弾の不発で保
護を求めた村民に対して「『貴様たちにかまってはおれん。さっさと
帰れ!』赤松大尉は、壕の入り口に立ちはだかり、恐ろしい形相で島
民をにらみつけた」と、当時の状況をくわしく記述している。壕に入
れなかった38人は米軍の砲撃で亡くなっている。

梅沢少佐の率いる約1千人の陸軍部隊が駐屯していた座間味村の集
団自決について記述した158ページには「それは『働き得る者は男
女を問わず、戦闘に参加せよ。老人、子供は全員、村の忠魂碑前で自
決せよ』というものだった」と書かれている。日本軍から手榴弾が配
られ、軍命令で集団自決が行われたことは県民大会での体験者の発表、
新聞に次々と発表された証言記録とも一致している。そして、慶良間
諸島の中で日本軍が駐屯していない島では、決して集団自決が起こっ
ていないことに注目してほしい。>

防衛研究所が沖縄戦資料に軍命否定の所見

新たな戦争遺留品(F075)

F075

また新しくアメリカ人戦争遺留品の日章旗を返還したいとの申し出が
ありました。海兵隊員だった義父が戦争中サイパン島で入手した物だ
そうです。

元の持ち主名は「白川哲男」で、寄せ書きには、白川(隆二、充)、
松浦(武雄、彦郎)、福島(睦一、戒三、八三郎)、寺本(誠一、清
次郎)、塩次保治、伴五郎、加藤平之助などの氏名があります。

この日章旗については拙サイト「旧日本軍人の遺留品」の「日章旗
(F051~ ) 」のページにに、F075として掲載しましたので、ご覧く
ださい。

住民の集団自決と隊長の投降

大江・岩波沖縄戦裁判の原告である、当時座間味島駐屯の海上挺
進第一戦隊長・梅澤裕元少佐について、次のようなコメントが寄せら
れました。

< 私は多くの島民を自決させた後も洞窟に潜み、戦火が収まった
のを見極めて米軍に投降し,五体満足のまま内地へ帰り戦後60年、
訴えられたのであればまだしも あれは俺のせいではないとわざわ
ざ人を訴えるとは・・・この隊長、これまたお付き合いの出来ない人
物であります。>

梅澤元隊長については、フォトジャーナリスト森住卓氏が自分のブログ
に次のように書いています。

<しかし、彼は米軍上陸後、次ぎつぎと突撃命令を出し、多くの将兵
を死に追いやり住民をスパイとして虐殺し、自決へと追い込んだ責任
者でした。梅澤少佐は、朝鮮人慰安婦を伴い壕を転々と逃げ回り4月
10日、各隊に独自行動を命令。部隊の事実上の解散宣言をしてしまい
ました。

本人は自決もせず生き延びました。米軍に捕まったとき朝鮮人慰安婦
と一緒で、住民から石を投げられ、米軍に保護されながらトラックに
乗せられ連行されました。>

一方、桜井よしこ氏の描く梅澤像はちょっと違うようです。

<2006年も多くの取材をした。そのなかでも、10月18日に東京市谷で
会った梅澤裕氏は今後の日本のあるべき姿を物語るうえでも、印象深
い人だった。

氏は12月21日で90歳になった。祖父、一直は日清戦争の騎兵、父、英
彦は日露戦争の軍人だった。父は陸軍士官学校16期生で、板垣征四郎、
土肥原賢二、永田鉄山らとは自宅を訪れ合う仲だった。

「本当にすばらしい軍人ばかりで、私は幼い頃から、父たちのような
立派な軍人になることを夢見ていたのです」と梅澤氏は語る。

その声は力強く、椅子にかけた背はまっすぐだ。鍛錬を重ねたであろ
う往時の軍人の姿が思われる。>

櫻井よしこ ブログ! ≫ 沖縄集団自決、梅澤隊長の濡れ衣

「慰安婦とともに逃げ回る隊長」と「立派な軍人」、どちらが実像かわか
りませんが、梅澤元隊長が米軍に投降したのは45年5月下旬であった
ことは事実です。

陸軍士官学校出身の部隊長殿が、戦争終結を待たず、負傷を装って敵
の捕虜になるなどとは、「生きて虜囚の辱を受けず」を信じていた当時の
軍国少年にはとても考えられないことでした。

防衛研究所の史料に「集団自決に隊長の命令はなかった」という見解を
付けた、戦史編纂官の伊藤常男氏は、「戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦」
の中で住民の集団自決は「崇高な犠牲的精神」によるものだと書いてい
ます。陸士後輩の梅澤元少佐の投降についてはどう評価していたのでし
ょう?

横浜で中国における戦争犯罪の証言集会

今日のインターネット新聞 JanJan は、去る14日横浜で開かれた「私
の体験した戦争犯罪と謝罪の旅」と題する証言集会のレポート記事を
掲載しています。

証言したのは、敗戦後5年間シベリアに抑留された後、戦犯として中
国「撫順戦犯管理所」に6年間収容された小山一郎・元軍曹(87歳)
で、小山さんは中国・山東半島における中国人に対する残虐行為につ
いて語りました。

詳しくは:
「横浜で『強制連行』の証言集会

「集団自決」防衛研“見解” 沖縄紙社説が批判

防衛省・防衛研究所が、沖縄戦の集団自決は隊長命令でなかったとの
見解を示していたことについて、今日の沖縄タイムスの社説は、

<文科省の検定意見といい防衛研究所の見解といい、政府は一貫して
日本軍の責任を希薄化する姿勢を見せてきた。沖縄地元の研究者や住
民側証言との落差が際立っている。>

と政府の姿勢を強く批判しています。

「【『集団自決』見解】これでは予断を与える

集団自決の住民記録は誤り-防衛研所見

先に防衛省・防衛研究所が沖縄戦・集団自決に関する史料に「集団自
決は戦隊長命令でなかった」とする所見を付けていたことが分かった
とお伝えしましたが、さらに住民が記録した史料についても「内容に
相当の誤りがある」「実際より誇張されている」などとの所見を付し
ていたことが新たに分かったとのことです。

「『集団自決』住民記録 『内容に相当の誤り』」(琉球新報、16日)


シリーズ「歴史は生きている」

朝日新聞では現在、「歴史は生きている」というシリーズを毎月1回
連載しています。これはアヘン戦争(1840年)から冷戦終結までを対
象に10のテーマを選び、現在とのつながりや「交流と連鎖」という新
しい観点から歴史を再現するもので、各テーマについて日中韓台4カ
国の教科書も比較しています。

昨年末で、「7章:アジア・太平洋戦争と国共内戦」まで終わりまし
たが、その記事を次のサイトで読むことができます。

歴史は生きている


沖縄集団自決:防衛研が「命令なし」の見解

今朝の毎日新聞は次のように報じています。

< 防衛省の防衛研究所(東京都目黒区)が、第二次大戦時の沖縄・
集団自決に関する資料に「集団自決は戦隊長命令でなかったことが証
明されている」とする見解を付けていたことが分かった。資料は図書
館で一般公開されており、専門家は「自決命令については事実が確定
しておらず、読む者に予断を与える」と強く反発。同研究所は「不適
切だった。削除したい」としているが、国の機関が一方的な見解を示
していたことは、波紋を広げそうだ。>
沖縄集団自決:防衛研が『命令なし』の見解 公開資料に

東海大学の鳥飼行博研究室のサイトによれば、防衛研究所戦史室の記
録に集団自決は「崇高な犠牲的精神」によるものと書かれているそう
です。

<防衛庁の防衛研究所戦史室の記録は、「この集団自決は、当時の国
民が一億総特攻の気持ちにあふれ、非戦闘員といえども敵に降伏する
ことを潔しとしない風潮が、きわめて強かったことがその根本的理由
であろう。…小学生、婦女子までも戦闘に協力し、軍と一体となって
父祖の地を守ろうとし、戦闘に寄与できない者は小離島のため避難す
る場所もなく、戦闘員の煩累を絶つため崇高な犠牲的精神により自ら
の生命を絶つ者も生じた。」>
沖縄戦での住民集団死 / 集団自決:渡嘉敷島 鳥飼行博研究室


帰らざるベストナイン

今日のメディアは、夏の甲子園大会で全5試合を完封、準決勝、決勝
を連続ノーヒットノーランに抑え、不世出の左腕といわれた嶋清一投
手が野球殿堂入りを果たしたことを報じています。

嶋は和歌山・海草中(現向陽高)から、その後明治大学に進学、野球
部のエース・主将として活躍しましたが、学徒出陣で1943年12月に海
軍に召集され、海防艦に乗艦、45年3月29日ベトナム海岸沖で米潜水
艦の魚雷攻撃を受け帰らぬ人となりました。24歳でした。出征前に結
婚したよしこ夫人には遺骨も遺品もない白木の箱が届いただけでした。

海草中時代のチームメート、古角俊郎さん(86)は「嶋をはじめ、多
くの選手が戦争で亡くなった。平和ほど尊いものはないと思ってほし
い」と語っています。

戦争では多くの中等球児たちが亡くなっています。1970年8月15日の
朝日新聞に掲載されました“帰らざるベストナイン”をご紹介して、
改めてご冥福をお祈りします。

投手  嶋 清一   海草中
捕手  吉原 正喜  熊本工
一塁手 中河 美芳  鳥取一中
二塁手 長良 治雄  岐阜商
三塁手 景浦 将   松山商
遊撃手 柚木 俊治  呉港中
外野手 村上 重夫  中京商
外野手 梶上 初一  広島商
外野手 鬼頭 数雄  中京商

中等野球 戦火に倒れた名選手たち」から

「原爆詩一八一人集」英語版

峠三吉や栗原貞子らの被爆詩人と戦後生まれの詩人らの計181人の217
編を集め、昨年8月刊行されました「原爆詩一八一人集」の英語版が
昨年末に完成しました。ノーベル賞受賞者・団体や映画監督、各国の
詩人・ジャーナリストらのほか核保有国の図書館などにも贈られると
のことです。

原爆詩集に英語版 核保有国の図書館などへ寄贈」(朝日大阪本社
版、12月28日)

今日の中国新聞のコラム「天風録」は、この英語版のことを採りあげ
ていますが、この翻訳に参加された大山真善美さんの感想も紹介さ
れています。

天風録:原爆詩集の英訳本

なおこの文中にありますウェブサイト「ヒロシマ平和メディアセンタ
ー」のURLは下記のとおりです。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/index.html

88歳元日本兵が語る“南京の記憶”

去る8日、大阪・毎日放送テレビのニュース番組「 VOICE 」で、「8
8歳元日本兵が語る“南京の記憶”」という番組がが放映されました。
当時南京戦に参加した元兵士たちが南京虐殺の体験を話していました。

残念ながらネットではこの録画は見られませんが、次のサイトで番組
の内容を詳しく説明していますので、お読みください。

88歳元日本兵が語る“南京の記憶”」

Re: 石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」

昨日の「石油で読み解く『完敗の太平洋戦争』」の感想に対し、靖
国神社・遊就館の展示について次のようなコメントをお寄せいただき
ました。

<この展示室に掲げられたパネル説明とアジアの地図は、「大東亜
を英米の支配から解放する」といった建前とは異なり、日中戦争にい
きづまった日本が資源を求めてアジアに戦域を拡大していった背景を
告白するものになっています。>

「石油で読み解く『完敗の太平洋戦争』」によれば、帝国陸海軍は開
戦の2年前くらいからすでに南方油田の確保の準備がなされていたと
のことです。以下同書の一部を引用します。

-----------------------------------------------------
南方油田を確保するために落下傘部隊の投人が検討された。この年
(引用者注:1940年)十一月には「陸軍落下傘部隊設立準備室」が立
ち上げられている。全陸軍から選抜された要員が、東京の「陸軍戸山
学校」と埼玉県所沢の「陸軍整備学校」に集められて、基礎訓練に入
ったのは開戦の一年一ヵ月前である。陸軍は航空総監部直轄の挺進団
(落下傘部隊)の編成を進めて、満州の白城子、九州の新田原で訓練
のあと、これをパレンバン降下作戦に投入している。

米国の「石油禁輸」が実施される前から、陸海軍の各部局では南方
石油確保のための準備が行われていた。昭和十六(一九四一)年に入
ると、陸軍省整備局は南方油田を確保したあとの復興用の掘削機と油
井管の準備を始めている。この年八月以降には日本中の掘削機が根こ
そぎ集められた。ロータリー式一一八基、綱掘式一五基、合計二二三
基の掘削機が油田地域の占領とともに南方へ輸送された。陸軍では整
備局とは別に独立工兵第二五連隊、通称「採油部隊」が南方石油を確
保する準備に人っている。この部隊は日本石油、帝国石油の民間技術
陣を加えて、九月二十四日に広島港を出航して、十一月には仏印のサ
イゴン(現ホーチミン)港で待機態勢に入っている。
----------------------------------------------------

当時、スマトラ島パレンバン油田を奇襲攻撃した「空の神兵」の活躍
は、われわれ軍国少年を欣喜雀躍させ、歌にまで歌われましたが、こ
ういう背景があったとは、子供にはとうてい分からないことでした。

また次のようなコメントもいただきました。

<しかし、遊就館のホールで毎日上映しているドキュメンタリー映画
「私たちは忘れない」の女性ナレーターはつぎのように語っています。
「ハル・ノートに日本政府は絶望しました! 中国大陸には多くの権
益があり、わが同胞も多数生活している! それを残して軍隊・警察
を撤退させることはできない! ことに満州には、日清・日露の戦いで
多くの将兵の犠牲のもとに取得した合法的な権益がある! それを捨
てることはとうていできない! 」と。>

これも矛盾していますね。自国の植民地は「合法的」と主張しながら、
他国の植民地は不当だというのは筋が通りません。植民地解放を唱え
るなら、まず朝鮮・台湾・満州などの自国の植民地を解放すべきだっ
たでしょう。

それにしても、敗戦後植民地を失った日本が飛躍的な経済発展を遂げ
たというのは、まさに歴史の皮肉ですね。


石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」

石油で読み解く

岩間敏「石油で読み解く『完敗の太平洋戦争』」(朝日新書、07年7
月)という本を読みました。太平洋戦争は「石油に始まり、石油で決
まった」というのがこの書の趣旨ですが、その概略は次のとおりです。

(1)太平洋戦争開戦の契機は、米国の「石油禁輸」である。当時の
日本は石油の80%を米国から輸入していた。

(2)米国は第一次大戦前から多くの人口を持つ中国市場の将来性を
見通しており、その権益を狙って、日本に「中国からの撤兵」を要求
し、経済制裁を課してきたのである。

(3)陸軍も、海軍も、石油の需給見通しや日米の国力比較を研究し
ており、その結果は極めて厳しいものであったが、このままジリ貧に
なるより、あえて血路を開くべしという勇ましい論が主流となり、南
方石油を確保する戦略を前提に開戦に踏み切った。

(4)そこでまず緒戦において南方油田を無傷で占領するため、すで
に開戦前から奇襲作戦用の落下傘部隊が編成され、訓練が行われてい
た。同時に採油部隊も編成されていた。

(5)それが成功して、まず南方資源を確保したが、問題はそれを日
本へ運ぶ補給路であった。日本の海上輸送計画はたいへん甘いもので
あったが、米国はすでに開戦前から島国である日本の海上封鎖作戦を
研究しており、輸送船に対する徹底的な攻撃により、南方補給路は寸
断されてしまった。

(6)かくして1945年8月の敗戦時には、日本の石油備蓄は完全に払底
し、国内経済は残り数ヵ月でまったく機能不全に陥る状況であった。

この本を読みますと、戦争はやはり経済的要因で起こるものであり、
「大東亜戦争は、アジアの植民地解放のためだった」などというのは、
いかにキレイゴトの空論であるかがよく解かると思います。

ある元特務機関員の体験した日中戦争(続)

一昨日ご紹介しましたHP「日中戦争の中の青春」の筆者である元中
支派遣陸軍特務機関員の中谷孝氏が、インターネット新聞「日刊ベリ
タ」に「戦争を知らない世代へ」という連載記事を書いておられます。

HPよりも詳しく書かれていますので、併せてお読みください。

戦争を知らない世代へ


新たな戦争遺留品(F074)

F074


また新しくアメリカの女性から戦争遺留品の日章旗を返還したいとの
申し出がありました。オークションで買った物なので、それ以前の入
手経路は不明とのことです。

元の持ち主名は「玉城貞一」で、その他金城、大城、新垣、當間姓の
署名があるので、沖縄県出身の兵士の物であったと思われます。

この日章旗については拙サイト「旧日本軍人の遺留品」の「日章旗
(F051~ ) 」のページにに、F074として掲載しましたので、ご覧く
ださい。


ある元特務機関員の体験した日中戦争

87歳になる元中支派遣陸軍特務機関員の方の体験を綴ったウェブサイ
トがありましたので、「戦争を語り継ごう -リンク集-」に掲載し
ました。

日中戦争の中の青春
元中支派遣陸軍特務機関員の1939年から1948年にわたる体験記。特務
機関員から見た日中戦争や日本軍の実態

筆者は次のように書いています。

< 戦争に常識は通用しない。戦場で紳士的な軍隊など見た事もない。
同情心、良心を捨てなければ戦争はできないことを、私は7年間充分
に体験した。>

元軍人による戦争体験記のサイトは数多くありますが、元特務機関員
によるものは他に類を見ないと思います。また違った眼で見た日中戦
争や日本軍の実態はたいへん貴重な記録です。ぜひお読みください。
皆さんのご感想もお待ちしています。

なお今後の更新は次のブログで行うとのことですから、併せてご覧く
ださい。
http://nichusenso.exblog.jp/

新規リンクのお知らせ

「戦争を語り継ごう -リンク集-」に新しく次の2サイトを追加し
ましたので、ご覧ください。

戦争はもうごめんです
女学校時代の学徒動員、芦屋の自宅が全焼した阪神大空襲、生まれ故
郷の大阪・心斎橋の空襲のことを語る

忘れ得ぬ日
旧長崎医科大学附属薬学専門部の学生たちが学校で被爆した状況を綴
る。長薬同窓会のサイトより


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プロフィール

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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