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従軍記者が見聞した南京事件(9/完)

最終回を投アップします。今回は南京事件と従軍慰安婦の関係につい
て書いてあります。これから次のことがいえると思います。

(1)軍上層部は南京等における強姦事件の多発に手を焼いていた。
(2)従軍慰安婦の制度は、南京事件がきっかけとなって、軍主導で
生まれた。
------------------------------------------------------------
「慰安施設の件方面軍より書類来り実施を取計ふ」―上海派遣軍参謀
長の飯沼守は、1937年12月11日の日記にそう書いた ( 『南京戦史資
料集Ⅰ』 ) 。南京に猛攻撃をかけているさなか、軍は慰安所の設置
を準備していた。強姦事件の多発を抑制することなどが目的だった。

朝日新聞三重版 (38年2月4日付 ) が掲載した兵士の手紙に、次の
くだりがある。
「南京も陥落後一ケ月余りになります……各所に軍慰安所(料理屋)
が出来まして毎日押すな押すなの大賑ひです」 ( 丸カッコ内、原文
のまま )

南京陥落直後に帰国した朝日記者斉藤一は38年秋、2度目の派遣で
中国にいた。「上海、鎮江、杭州、蘇州、南京、安慶から九江まで…
…どこにも慰安所」と手記にある。斎藤は、慰安所の「親父」の言葉
を書きとめる。

「女達の中に二人、戦線慰問部隊をどうしても嫌がる女がゐた。無理
やりに連れて来る様にして連れて来たが……(今では ) 兵隊さんに
からだもいのちも献げる気持は本当です……といひながら、ハリ切つ
てやってゐます。…… みんなお国のためですからね」

斎藤は「そういって笑った親父の顔は実に卑しかつた」と記してい
る。

40年、陸軍省は「支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策」 ( 防
衛省防衛研究所史料 ) を策定する。「掠奪、強姦、放火、俘虜惨殺
等皇軍たるの本質に反する幾多の犯行を生じ……聖戦目的の達成を困
難ならしめあるは遺憾とする所なり」

それが「皇軍」の実態だった。

その後、斎藤は、新潟、札幌の支局長を務め、戦後は仙台支局長な
どを歴任する。仙台時代には、平泉・中尊寺に眠る藤原氏三代の遺体
の調査、公開に尽力。76年に73歳で他界した。

長女 (74) は、小学3、4年生のころ、斎藤とこんな会話を交わした
ことを忘れない。

「ぬれた手ぬぐいは、バサッと音をたてて水を切っては絶対にいけな
いよ」
「どうして?」
「支那人の首を兵隊が切った時と同じなんだよ、その音が……。お父
さんはそばにいたんだ」

斎藤はわが子に軍歌を歌うことを禁じ、自らは「勝ってくるぞと痛
ましく……」とつぶやいた。

新潟にいた43年ごろ、長男が予科練に志願したいと打ち明けた。斎
藤は許さなかった。泣きながら、半狂乱となって、何度も息子を殴っ
た。

「行かせねえ、戦争になど行ってはならねえ」

戦況、すでに劣勢。新聞は、日本軍の「赫々たる戦果」を伝えてい
た。                            (完)
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従軍記者が見聞した南京事件(8)

南京戦の報道には「やらせ」があった。

第2野戦高射砲兵司令部副官、石松政敏の証言がある(『南京戦史』)
「郷土新聞社からの従軍記者や写真班が望むがままに……大勢のなか
には刺殺、斬首などの真似をした馬鹿者もおりました」

南京陥落からーカ月近くたった ! 938年1月9日、国際難民区の入り
口で、数人の記者が、ケーキ、りんご、わずかな硬貨を難民に手渡し、
その場面を映画撮影していた。

「 ( この間 ) かなりの数の兵士が裏の塀をよじ登り、構内に侵入し
て一〇名ほどの婦人を強姦したが、こちらの写真は一枚も撮らなかっ
た」(一九三七―三八年冬季の日本軍の南京虐殺に関する報告(『南
京事件資料集1』 )

1月、日本政府は、中国との和平工作を打ち切り、近衛文麿内閣は
16日、「国民政府を相手とせず」との声明を発表。戦争は泥沼化する。

南京陥落で戦争が終わる、父が、夫が帰ってくる。万歳の背後にあ
った人々の期待は、消えた。

4月15日、上海などで配られた朝日新聞中支版に、林田重五郎特派
員の記事が載る。
「南京でまづ整理しなければならないものは敵の遺棄死体であつた。
濠を埋め、小川に山と重なってゐる幾万とも知れない死骸……」
「 ( 自治委員会などが ) 最近までに城内で一千七百九十二体、城外
で三万三百十一体を片づけた」

この記事は、北支版と朝鮮の地方版にも掲載された。しかし、国内
の紙面には載らなかった。

5月、前年秋に戦死した陸軍中佐杉本五郎の遺稿が『大義』の題で
出版された。ベストセラーとなったこの本には、多くの伏せ字があっ
た。例えは、次の一節 (89年発行の復刊本による ) 。

「一度敵地を占領すれば敵国民族なるの所以を以て殺傷して飽く事な
く、略奪して留る処を知らず。悲しむべし」

「尊皇に生きよ」と説き、「軍神」とたたえられた杉本は、皇軍の批
判者でもあった。

7月6日朝、富山日報記者、深山清市の乗る列車が富山駅についた。
「 ( 南京・下関に ) 敵屍の山」 (5月9日付富山日報 ) と報じた記
者の8カ月ぶりの帰郷である。

「車窓に , ( 顔を ) 現すやワッと歓声あがり万歳のどよめき」 (7
日付富山日報タ刊 )

駅頭、地元名士や群衆は深山の勇壮なあいさつを待った。しかし、
深山は、一言も発することなく、ただ泣いた。次女篁子 (70) は語る。
「『恥ずかしくて、逃げて帰ってきた』と母は繰り返し言っておりま
した。父は『女、子供に戦争がわかるもんか』と母に話したそうです」

「集団自決」教科書訂正に関する各紙社説(続)

今日の産経新聞のコラム「産経抄」は<今さら改まっていうことでも
ないが、小紙は少数派に属しているらしい。きのうの各紙(東京版)
と見比べて、つくづく思った。>と書いています。

今日も昨日に引き続き、ほとんどの地方紙の社説が「集団自決」の教
科書改訂の問題を採りあげています。そのすべてが産経と対立する論
調です。東京版だけでなく、地方紙にも目を通したら、もっと「少数
派」であることがわかるでしょう。

「反面教師的な教訓が多い/沖縄・集団自決検定」(東奥日報)
http://www.toonippo.co.jp/shasetsu/sha2007/sha20071228.html

「沖縄戦の教科書検定 検定意見は撤回すべきだ」(茨城)
http://www.ibaraki-np.co.jp/main/ronsetu.htm

「集団自決教科書 検定の矛盾が噴き出した」(新潟日報)
http://www.niigata-nippo.co.jp/editorial/index.asp

「集団自決記述検定  透明性高める抜本改革を」(岐阜)
http://www.gifu-np.co.jp/column/syasetsu/

「教科書再検定/あり方を再考する機会に」(神戸)
http://www.kobe-np.co.jp/shasetsu/0000784829.shtml

「沖縄教科書問題 課題残した『灰色』の幕引きだ」(愛媛)
http://www.ehime-np.co.jp/rensai/shasetsu/ren017200712283242.html

「【集団自決記述】 現行検定の限界示す」(高知)
http://203.139.202.230/?&nwSrl=221766&nwIW=1&nwVt=knd 

「沖縄戦教科書記述」(宮崎日日)
http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?blogid=5&catid=15

「沖縄戦・教科書検定 制度の透明性を上げよう」(熊本日日)
http://kumanichi.com/iken/index.cfm#2651
 
「 [ 集団自決検定 ] 撤回はせず実質的に方針を転換した」(南日本)
http://373news.com/_column/syasetu.php?ym=200712&storyid=8402

「[教科書検定審報告(下)]幾つもの問いが残った」(沖縄タイム
ス)
< 次代を担う学生に希望したいのは、今回の検定事例を丹念に、さ
まざまな角度から検証する機会をつくってほしいということである。
大きな問いを引き受けることが戦争体験の継承と普遍化につながって
いく。>
http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20071228.html#no_1

次の各紙も、昨日の社説に引き続きコラムでも採り上げています。

「卓上四季」(北海道)
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/fourseasons/

「筆洗」(中日 / 東京)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2007122802075664.html

「金口木舌」(琉球新報)
http://ryukyushimpo.jp/variety/storytopic-12.html

戦時中「一億玉砕」を信じていた軍国少年OBとしては、「卓上四季」
の次の一節にいたく同感しました。

<▼考えてみれば、直接の命令がない自決があったとは、むしろ恐ろ
しいことだ。学校や地域も、軍や政府と一体になり、「軍国」日本と 
して戦争に加わった。その宣伝や教育の結果だろう。集団自決を強い
たのと同じ熱病は、沖縄だけでなく全国にまん延していた>

「南京虐殺はなかった」との証言

今日の産経新聞のコラム「正論」に、拓殖大学教授の藤岡信勝氏が去
る12月6日、東京の九段会館で行われた「南京陥落70年国民の集い 
参戦勇士の語る『南京事件』の真実」という集会のことを寄稿してい
ます。

5人の“勇士”により、<「軍紀弛緩(しかん)・悪逆非道の日本軍」
のイメージを根底から覆す貴重な証言の数々>が語られたとのことで
す。

拓殖大学教授・藤岡信勝 70年目の証言に拍手やまず

なおこの集会については、週刊新潮2007/12/20号でも報道されている
とのことですが、下記ブログではその内容が詳しく引用されています。

家族がいちばん

これによれば、今年97歳の稲垣清証人が次のように語ったとのことで
す。

「中島今朝吾師団長の日記は5冊、目を通しましたが、捕虜を取る方
針でなかったとか、見つけたら即刻片づけること云々とありますけれ
ども、全部反対に解釈されとるように思えますわ。私は、捕虜を取る
方針でない、ゆうんは、殺せいうことやなくて逃がせゆうことだった
んだと、あの頃から思っとりました。」

この証言に藤岡氏は<目からウロコが落ちる思いだった>と書いてい
ますが、その中島今朝吾日記には次のように書かれています。

<一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境内の森林村落
地帯に出て又一方鎮江要塞より逃げ来るものありて到る処に捕虜を見
到底 其始末に堪へざる程なり

一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなした
る(れ)共千五千一万の群集となれば之が武装を解除すること すら
出来ず 唯彼等が全く戦意を失ひぞろぞろついて来るから安全なるも
のの之が一端掻(騒)擾せば始末に困るので部隊をトラツクにて増派
して監視と誘導に任じ 十三日夕はトラツクの大活動を要したりし 
乍併戦勝直後のことなれば中々実行は敏速に出来ず 斯る処置は当初
より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり

一、後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万
五千、大(太)平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇
〇其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千あり尚続々投降し来る

一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず
一案としては百二百に分割したる後適当のけ(か)処に誘きて処理す
る予定なり >

中島今朝吾日記 12月13日

「片付ける」が「逃がす」という意味なら、なぜ“相当大なる壕”が
必要なのでしょうか? 「処理する」とは「逃がす」ということでし
ょうか?

私は戦争中、小学生でしたが、「捕虜を処理する」と聞いたら、「殺
す」と理解したでしょう。子供でもわかることが、将校にわからなか
ったとは驚きです。獣医少尉ということですから、きっと動物好きの、
優しい方だったのでしょう。


従軍記者が見聞した南京事件(7)

南京陥落から2週問たった1937年12月27日のことだ。文芸評論家で東
京朝日嘱託の杉山平助は、朝7時に車で上海をたち、タ5時、南京支局
に着いた。

支局は国際難民区の中にあった。「避難民がまはりにいっぱい住ん
で」おり、「死骸はまだ、いたるところに転がつてゐ」た。

夜、若い従軍記者がランプの周りで「戦争と人道」をめぐって議論
を始めた。
「勝利のためには……一切の道徳律は無力であり無能である」と杉山
は論じた ( 「南京」『改造』38年3月号 ) 。そう考えることで杉山
は、自らを納得させようとしたのだろう。

南京滞在中、「支那人の死骸がツクダニのやうに折り重なった南京
の城壁のほとりを、ひとり静かに歩い」た。「南京城内外、鬼哭啾々
(きこくしゅうしゅう)たるの恨み」を聞いた。「南京の印象は、あ
まりに強烈だ。私の心はレストレスである。不安である」と杉山は朝
日紙上で告自した (38年1月18日付 ) 。

童謡「かなりや」などで知られる詩人、作詞家の西条八十は、雑誌
の「皇軍慰問使」として南京入城式に臨み、戦揚跡を歩いた。その経
験を「皇軍奮戦の跡を弔ふ」と題する一文にまとめ、『主婦之友』38
年2月号に寄せる。

なかに「さらば上海」という詩がある。
夢魔の都をさまよひて、
見るべからざるものを見ぬ、
十日の旅の血地獄に
身も魂も疲れたり。
( 中略 )
幾万千の屍を
底に沈めし長江ぞ、
夜のジャンクの舷に
青き燐火は燃ゆるなり。 ( 後略 )

朝日の従軍記者たちも、行間に思いを込めた。
「戦争後の南京は烏がふえた。その烏が ( 莫愁 ) 湖畔の枯枝の間に
群れ鳴いて一種のな腥気(せいき、生臭い空気)がいまなほあたりに
たちこめてゐる」 ( 守山義雄、1月5日付大阪朝日 )

「戦場は……進軍ラツパも鳴らねば晴れやかな大行軍もない『地冷や
かにして膏未だ朽ちず』と杜甫の詩にあるやうな小鳥も鳴かぬ流血の
野だ」 ( 横田省已、2月9日付東京朝日夕刊 )

名古屋新聞の従軍記者、柴田儀雄は、「三田澪人」の筆名をもつ歌
人でもあった。『短歌研究』38年6月号に三田の「戦地吟詠」が載る。
二万余のいのちたちまち滅びしとわが驚く前のしかばねの山
(下関)
まざまざと屍の山見てぞ過ぐ黒土の下のしかばねの臭ひ

沖縄戦・近現代史専門家の意見

今日の朝日新聞朝刊は、「集団自決」に関する教科書検定審議会・日
本史小委員会の「再審議」について詳しく説明しています。

そのうち、小委員会が諮問した9人の沖縄戦や日本近現代史の専門家
の意見(要旨)を以下引用します。

------------------------------------------------------------
検定審の日本史小委員会は、沖縄戦や日本近現代史の専門家に「集
団自決」について意見を求めた。依頼したのは9人 ( うち1人は匿名
希望 ) で、以下のような要旨の文書を寄せた。

●大城将保氏 ( 沖縄県史編集委員=沖縄戦研究 )
「戦闘能力のないものは捕虜になる前に自決 ( 玉砕 ) せよ」という
方針は全軍的な作戦方針に基づく。避難民は、手榴弾や爆薬が支給さ
れた時点で「軍の自決命令」と受け止めるように心の準備がなされて
いた。沖縄戦をまともに調査・研究している研究者やジャーナリスト
で「命令・強制・誘導等の軍の関与はなかった」と断言できる者は私
の知る限り一人もいない。

●我部政男氏 ( 山梨学院大教授=日本近代史 )
明確なことは、「集団自決」の起こった歴史的な事実の背景に「軍官
民一体化」論理が存在していたこと。戦時におけるこの国民意識の存
在の意義から「集団自決」の発生を考えることが、ごく自然なように
思われる。「軍命令」は「軍官民一体化」論理の範礒に入るものだと
考える。

●高良倉吉氏 ( 琉球大教授=琉球史 )
背景として重視すべき点の一つは、目前の住民=国民の生死よりも作
戦遂行を至上とした日本軍側の論理だ。日本軍側の論理や特質を抜き
に「集団自決」事件を説明することは不可能であり、そのことを特筆
しつつ歴史としての沖縄戦を提示することが求められている。

●秦郁彦氏 ( 現代史家=日本近現代史 )
命令は発令、受令者名、日付、番号を記した文書によるのが原則であ
り、正規の戦隊長命令が出ることはありえない。軍命説が成り立たぬ
理由としては、自決の「強制」は物理的に不可能に近いこと、自決者
は全島民の3割に及ばず多数が生きのびたこと、攻撃用手榴弾の交付
は集団自決との因果関係はないことなどがある。

●林博史氏 ( 関東学院大教授=日本近現代史 )
米軍に捕らえられると残酷な扱いを受けて殺されるという恐怖心の扇
動、多くの将兵があらかじめ手榴弾を配って自決せよと言い渡してい
たことなど、軍はさまざまな方法で「集団自決」を強制していった。
部隊長が直接命令したかどうかという論点から強制と誘導を否定する
ことはできない。

●原剛氏 ( 防衛研究所戦史部客員研究員=軍事史 )
渡嘉敷、座間味の集団自決は、軍の強制と誘導によるとは言えない。
「捕らえられて殺害されるか辱めを受けるよりも死を選ぶ」思潮が強
かったこと、「捕虜になるのは恥ずかしいこと」という観念があっ
たことが原因と考える。ただし、このような事態に追い込まれたのは、
政治・教育・社会思潮・戦争などから醸し出されたものだと言えよう。

●外間守善氏 ( 沖縄学研究所長=沖縄史)
①日本本土の一億日本人のため沖縄島は防波堤として使われた②軍の
存在は住民にとって脅威で、軍隊という組織と秩序は沖縄島を守り住
民を守るためと理解されていたが、戦闘に入った瞬間、県民は逃げ場
を失って右往左往した。集団自決の問題も、①②の問題に通底してい
る。

●山室建徳氏 ( 帝京大講師=日本近現代史 )
前後の状況を見ずに、一部の日本軍が住民に自決を強要したとだけ記
述するのは、それが事実だったとしても、適切な歴史叙述とは言い難
い。少なくとも日本軍将兵の「集団自決」や特別攻撃も併せて記述す
べきだろう。ともに、日本人の戦死観を考える上で、欠くことのでき
ない要因だからだ。

●匿名希望の軍事史家 ( 要旨を文科省が発表 )
沖縄戦は、日本国土が戦場となった稀有の例であり、住民が戦闘に巻
きこまれた。集団自決の起こった原因・背景としては、敵から逃げる
ことができず、投降すべきではないという集団心理が働き、軍人に要
求される規範が住民に心理的強制として作用したことがある。

「集団自決」教科書訂正に関する各紙社説

沖縄戦「集団自決」の教科書訂正に関する今日の各紙の社説をご紹介
します。

「集団自決検定―学んだものは大きかった」(朝日)
< これまで集団自決が教科書に載るのは2~3行程度で、簡単な内
容だった。それが訂正申請で、当時の社会的な背景なども書き込まれ
た。結果としては、内容はいっそう充実したかもしれない。 >
http://www.asahi.com/paper/editorial.html

「『沖縄』教科書 “政治的訂正”の愚を繰り返すな」(読売)
< 実数を5倍以上も上回っていた主催者発表の数字に、政府が驚い
たことで始まった“訂正劇”だった。
  政府は、教科書検定に対する政治介入の愚を二度と繰り返してはな
らない。>
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20071226ig91.htm

「集団自決記述 『強制』排除になお疑問が残る」(毎日)
<  本土決戦準備の「時間稼ぎ」とされた沖縄戦で軍は持久戦法を取
り、長期地上戦に住民を巻き込んだ。住民は、「捨て石」視された逃
げ場のない島で、投降も許されず、しばしば軍に壕(ごう)から追い
出されたり、食糧を取り上げられたりした。生き延びる選択を奪われ
たような状況を強いたのは軍であり、個別の自決命令の有無より、ま
ずそうした基本関係への理解が必要だ。>
http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/

「沖縄戦集団自決 禍根を残した“二重検定”」(産経)
<  審議会には、沖縄戦に詳しい専門家9人の意見書が提出され、日
本史小委員会だけで7回も開かれた。事実上の“二重検定”であり、
それ自体、検定制度を逸脱している疑いが強い。>
http://sankei.jp.msn.com/life/education/071227/edc0712270306001-n1.htm

「集団自決記述 『強制』なしで伝わるか」(中日 ・東京)
< だが、「様々な背景・要因」を持ち出して「歴史の真実」から目
を背けていないか。「強制」という言葉を用いずに沖縄戦の悲劇の本
質を伝えることはできるのか。軍が自決用の手榴弾を住民に配った事
実があり、多くの沖縄住民が当時を証言している。強制はなかったと
も解釈できる表現になっている記述があることこそ問題だ。>
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2007122702075331.html

「教科書検定 『軍関与』は復活したが」(北海道)
< 沖縄には、数多くの生存者の証言が残っている。そこから伝わっ
てくるのは、軍が捕虜になることを許さず、自決を強いられた人もい
たという軍国主義の異常さだろう。
  「軍の強制」の記述が削られた教科書で、沖縄戦の真実を若い世代
に正しく伝えることができるだろうか。>
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/editorial/67994.html?_nva=2

「教科書問題 『軍強制』は明らか/検定意見は撤回すべきだ」(琉
球新報)
<「集団自決」の現場にいながら命拾いをした多くの体験者らがこれ
まで「軍の強制」を証言してきた。その事実を検定審が一つ一つ丹念
に検証した形跡はない。
  そのことを抜きに「軍の直接的な命令」を示す根拠はないと断定す
ることに、果たして正当性があるだろうか。>
http://ryukyushimpo.jp/news/storytopic-11.html

「[教科書検定審報告(上)]史実をぼかす政治決着」(沖縄タイム
ス)
< 隊長命令があったかどうかという問題と、日本軍によって強制さ
れたという問題を混同してはならない。>
http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20071227.html#no_1

従軍記者が見聞した南京事件(6)

南京入城式の翌日、1937年12月18日発行の東京朝日タ刊 ( 紙面上
は19日付 ) は、軍の発表をうけてこう報じた。
「南京攻略にあたり敵の遺棄せる死体は八、九万を下らず捕虜数千を
算す」

歴史学を研究する洞富雄は当時、この記事を読んで「慄然」とした
( 『近代戦史の謎』 ) 。

直前に朝日は「江岸で一万五千捕虜」 (16日付)、「なほ潜伏二万
五千敗残兵狩り続く」 ( 同 ) などと報じていた。

なのになぜ捕虜が「数千」なのか。洞は、大規模な捕虜殺害を紙面
から「直覚」した。

南京で何が起きたか。新聞は、事実をそのまま書くことはできなか
った。しかし、その一端は、当時の紙面にも刻印されている。

例えば、38年1月13日付朝日尾張版の記事「敵屍をご馳走に南京の
お正月」は言う。
「南京城内外や揚子江付近は敵屍数万、一目で約五、六百の屍体の山
が何ケ所かある。…… 戦争敗けてはいけませんね、日本に生れた我
々は幸福だと思ひます」

1月20日付千葉版にも「南京城の北方で……(揚子江を)渡河中の
敵を射撃し敵二百名以上を殺し、隊長から“お前は殊勲甲である”と
賞められて面目をほどこした」との記事がある。

もっとも「日本の将校がシナ人の首をいくつ切ろうが……無関心」
( 安岡章太郎『僕の昭和史』 ) というのが大方の読者だったかもし
れない。

「南京」は一方で「うわさ」としてひそかに語り伝えられた。
「我軍は支那兵約二万を捕虜としたるが之を全部機関銃にて射殺し死
体は揚子江に流したる旨」
「揚子江岸にて捕虜一万二千名に対し食糧を供給すること能はずして
鏖殺(おうさつ)したる由」

国内でそう話した2人の民問人が38年、それぞれ陸軍刑法違反で有
罪判決を受けている(西ケ谷徹『支那事変に関する造言飛語に就て』)。

日中戦争開始の37年7月から2年間に、憲兵が察知した軍人・軍属
6452人の要注意通信、言動、手記などを分析したデータがある。

「掠奪強姦は自由」「捕虜は列べて試斬りとし又は機関銃にて射殺す」
など「皇軍将兵の掠奪強姦良民虐殺」に関するものが418件。「死体
散乱し惨状目を覆ふ」など戦争の悲惨を言うものが288件にのぼった
( 大本営陸軍部研究班「支那事変ヨリ観察セル我ガ軍人軍属ノ思想状
況」『日本軍思想・検閲関係資料』 ) 。

華々しき戦勝の報書く記者もおびただしかる屍を見む ( 松本基次、
38年刊『支那事変歌集戦地篇』から )

「集団自決」、軍の強制復活せず 検定審が結論

沖縄戦「集団自決」に関する教科書検定問題で、文部科学省は今日、
軍による「強制」などの表現は認めないが、軍の「関与」が主な要因
とすることで、教科書会社6社8点の訂正申請をすべて承認しました。

これについて沖縄タイムスは今日、電子号外を発行しました。教科書
会社全社の記述修正の具体的な内容も書かれていますので、ご覧くだ
さい。
http://www.okinawatimes.co.jp/pdf/2007122601G.pdf
http://www.okinawatimes.co.jp/pdf/2007122602G.pdf

また産経ニュースは、<断定的な記述や信憑(しんぴよう)性が疑わ
れる記述、事実ではあっても教科書記述として首をかしげたくなる記
述が次々とパスした。>と批判的な記事を掲載しています。
首かしげる記述、次々パス 集団自決訂正申請

TBSは夕方のニュースのトップにこれを報じました。
教科書検定問題、「軍の関与」認める
仲井真・沖縄県知事は一定の評価
「つくる会」、検定審の結論を強く批判

従軍記者が見聞した南京事件(5)

「(揚子)江岸で一万五千捕虜」
1937年12月16日の朝日は、大きくそう報じた。「両角部隊は……総
計一万四千七百七十七名の敵軍と遭遇……捕虜とした」

両角部隊 ( 歩兵第65連隊、両角業作連隊長 ) の編成地は、福島の
会津若松。翌17日の朝日福島版は「おおでかした両角部隊」と郷土の
部隊をたたえ、県内の反応を伝えた。

前文で記者は「痛快だ、思ひ切つて一人残らず鏖殺(おうさつ)に
してやればよいのに、と老若男女一様に」「胸を……沸き立たせ」て
いる、と書いた。
「鏖殺」とは、皆殺しの意昧だ。

両角部隊が所属する歩兵第103旅団、山田栴二旅団長は14日の日記
にしるす。
「捕虜の仕末に困り、恰も発見せし上元門外の学校に収容せし所、一
四、七七七名を得たり、斯く多くては殺すも生かすも困ったものなり」
( 『南京戦史資料集Ⅱ』 )
記事と日記と、捕虜の数が一致する。

「十五日 晴 捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡
す 皆殺せとのことなり 各隊食糧なく困却す」 ( 山田日記 )

南京入城式を17日に控え、日本軍は「残敵掃討」を急いだ。欧米人
が設置した「国際難民区」にも入り、「残敵」を連行した。

戦意を失い、軍服を捨てた中国兵と、避難民とは、ほとんど見分け
がつかなかった。

歩兵第7連隊の井家又一上等兵は、16日午前10時から「掃蕩」に出
かけた。「若い奴を三百三十五名を捕えて来る。避難民の中から敗残
兵らしき奴を皆連れ来るのである。……只々泣くので困る。手にすが
る、体にすがる全く困った」

この模様を取材しようと新聞記者が車から降りてきた。「十重二
(十)重にまき来る支那人の為、流石の新聞記者もつひに逃げ去る」
「揚子江付近に此の敗残兵三百三十五名を連れて他の兵が射殺に行っ
た」 ( 『同資料集Ⅰ』 )

16日午後、同盟通信記者前田雄二は、日本兵が捕虜を池の端に立た
せ、背後から撃つのを見た。
「記者さん、やってみないか」
下士官が銃を差し出した。前田は驚いて手を引っこめた。同行の連絡
員がニヤリと笑って銃を受けとった ( 前田『戦争の流れの中に』 ) 。

「目につく殆どの若者は狩り出される。……徹底的に掃蕩せよとの、
軍司令官松井(石根)大将の命令が出ているから、掃蕩は厳しいもの
である」 ( 「水谷荘日記」『同資料集Ⅰ』 )

従軍記者が見聞した南京事件(4)

陥落の翌日、南京城の内外で「残敵掃討」が行われた。その近くに
記者たちがいた。

この日、南京の目抜き通りにいた朝日記者中村正吾のそぱに、米国
旗をつけた車が止まった。

2人が降りてきた。南京で取材を続けていたニューヨーク・タイム
ズ記者ダーディンと、パラマウント映画ニュースのカメラマン、メン
ケンだった。南京の最後のようすを中村が尋ねると、「いやどうも恐
ろしかったね」という答えがかえってきた (16日付朝日 ) 。

ダーディンは15日、船で南京を離れる。そして、その目で見た光景
を米国へ書き送った。
「 ( 揚子江岸の下関で ) 乗船する間際に、記者はバンド ( 埠頭 )
で二〇〇人の男性が処刑されるのを目撃した。……日本兵は、ぐでぐ
でになった死体の上を無頓着に踏みつけて、ひくひくと動くものがあ
れば弾を打ち込んだ」 (18日付ニューヨーク・タイムズ『南京事件資
料集1』
) 。

米紙は「南京」を大々的に報じた。これを読んだ朝日のニューヨー
ク特派員森恭三は、日本へ「詳細に打電し」た。しかし、「一行も」
載らなかった ( 『私の朝日新聞杜史』 ) 。

森は39年、第2次大戦の取材で英国に出張した際、東京から来た中
村と会った。

中村は南京での体験を語った。
朝日の支局で働いていた中国人の「ポーイ」が日本軍に捕らわれた。
駆けつけて救出した。日本の軍人は自分を失い、殺害される方が落ち
着いていた。「日本人を廃業したい」「戦争は負けだよ」と中村は森
に言った ( 『回想中村正吾』 ) 。

朝日記者の今井正剛は37年12月15日夜、「数百人、数千人の足おと」
がひたひたと通りをいくのを耳にする。中村正吾と一緒にあとを追っ
た。

下関の桟橋に出た。
「少年から老年にいたる男たちが、小銃の射殺だけでは始末がつかな
くて、東西両方からの機銃掃射の雨を浴びて」いた ( 『特集文芸春
秋』56年12月号 ) 。

その日、朝日の杜説は、「抗日の首都」攻略を祝して、こう述べて
いた。
「皇軍の威武は……陥落の完全なる戦果を収め、古城新営の地区到る
ところに殆ど残敵をとどめず、凱歌は高く日章旗と共に揚つた」

現実には、南京は「残敵掃討」のさなかにあった。

従軍看護婦が受けた自決命令と岩波・大江沖縄戦裁判

今日のインターネット新聞 JanJan に、旧満州での従軍看護婦に対す
る自決命令を例に岩波・大江沖縄戦裁判を考えるという記事が掲載さ
れています。ぜひお読みください。

従軍看護婦が受けた自決命令―満州から岩波・大江沖縄戦裁判を考
える

従軍記者が見聞した南京事件(3)

中国軍や一般市民は、揚子江の対岸に渡って逃げようと、前日から
南京城北西、下関(シャーカン)の埠頭一帯に殺到した。しかし、船
がなかった。

日本軍は南京を包囲し、揚子江上には日本海軍の艦隊があった。
 
そこで何が起きたか。
「敗残兵三万の充満する」揚子江を小船で下った陸軍准尉らの体験
談が朝日新聞に載った ( 同盟電、38年1月25日付長崎版など ) 。

「 (12目13日午前3時ごろ ) 江上全部敵です……前後左右、民船、筏、
発動船、戸板などに乗った敵が一杯で殆んど水面が見えないほど」
「 ( 夜が明けて ) 敵の数は殖える一方……敗残兵はいづれも寒さに
震へながら一生懸命に漕いでゐる、その大部分は鉄砲を捨てたらしく
持つてゐない」

「翌十四日午前二時半下から ( 日本の ) 軍艦が遡つて来た……機銃、
小銃で猛烈に敗残兵を打ちながら来るので、我々はその敗残兵の中に
ゐるのでその危険といつたらありません、周囲の敵は銃火を浴びると
皆ザブンザブンと冷たい河中に飛び込む」

13日夜、軍報道部は「南京城を完全に占領せり」と発表した。

歩兵第36連隊乙副官の菅原茂俊は、タ食の際「記者団と共に」祝杯
をあげた ( 『南京戦史資料集Ⅱ』 ) 。

下関に突入した歩兵第30旅団長佐々木到一は「私記」にこうつづる
( 『同1』 ) 。

「軽装甲車中隊 (13日 ) 午前十時頃先づ下関に突進し、江岸に蝿集
し或は江上を逃れる敗敵を掃射して無慮一万五千発の弾丸を射ち尽し
た」
「我支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千……各部隊の俘虜
を合算すれば我支隊のみにて二万以上の敵は解決されてゐる筈である」
「その後俘虜続々投降し来り数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を
肯かばこそ片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧
みれば兵隊ならずとも『皆やってしまへ』と云ひ度くなる」「俘虜に
食はせるもの……我軍には無い筈…… ( 今夜はゆつくり睡られるぞ)」

兵隊さんの思い出

MLで子供の頃家に兵隊さんが泊まったという話がありました。それで
思い出しましたが、国民学校(小学校)低学年のころだったでしょうか、
兵隊さんが二人我が家にも泊まったことがあります。

当時は神戸に住んでいましたので、神戸港から船に乗る軍隊が一晩民
家に分宿したのでしょうか。隣組に割り当てが来て、我が家も引き受
けたのでしょうが、いずれにしろ子供のことですから詳しいことはわ
かりません。

祖父と父が座敷で接待していましたが、母に「あんたたちもご挨拶し
なさい」と言われ、弟と二人恐る恐るふすまを開けて入っていきまし
た。兵隊さんといえば、当時の男の子の憧れの的、初めて会う生身の
兵隊さんを前に、緊張して何をしゃべったのかまったく覚えがありま
せん。

兵隊さんといえば、もう一人忘れられない人がいます。国民学校4年
生のときですから、昭和18年くらいだったでしょうか、明石へ遠足に
行った際、一人の兵隊さん(下士官)が話しかけてきました。伊丹の
航空隊で地上勤務をしているそうで、「一度遊びに来ない」と誘って
くれました。

憧れの飛行機も見られるというので、私たちは大喜びで、約束の日曜
日仲のよかった三人組で出かけました。飛行場は今の伊丹空港で、阪
急の蛍池駅から、田んぼの中を歩いていきました。当時はまだ家も建
て込んでいなくて、駅から飛行場を見渡せるくらいだった記憶があり
ます。

そして当時の新鋭戦闘機「鍾馗」を眺め、酒保でその頃もう口に入る
ことも少なくなった甘い物をいただき、大満足で帰ってきました。

子供好きだったその兵隊さんとは、その後も文通を続け、とうとう岸
和田の実家にご招待を受け、また三人で一晩ご厄介になり、ご両親は
じめ一家で歓待していただきました。まだ空襲も食糧難もそれほど酷
くなく、余裕のある頃でした。

兵隊さん


このところたて続けに南京事件の嫌な話を投稿していますが、あのよ
うな悪徳兵士は例外で、ほとんどの兵隊さんは、このようにごくふつ
うの、子供好きの、いい人だったと思っています。

従軍記者が見聞した南京事件(2)

柳川平助中将が率いる兵団 ( 第10軍 ) に従軍した斎藤は1937年11月
20日、太湖南岸の湖州に入り、南京へと向かった。

斎藤よりやや遅れて、柳川兵団の法務部長、小川関治郎らの一行が
29日、湖州に着いた。

小川らの陣中日誌に、軍法会議にかかった事件が記録されている
( 『続・現代史資料6』 ) 。

―被告人は泥酔して「支那人二対スル強キ敵愾心(てきがいしん)二
駆ラレ……所携ノ銃剣ヲ以テ通行中ノ支那人三名ヲ殺害シタルモノナ
リ」。

―徴発した野菜を中国婦人3人に洗わせようとしたところ、ひとりが
応じようとしなかったため「被告人ハ……日本軍人ヲ軽侮スルモノナ
リトシ所携ノ歩兵銃ヲ以テ同女ヲ射殺シタリ」。

頻発する略奪、殺人、強姦。憲兵は「僅かに現行犯で目に余る者を
取押える程度」だった ( 上砂勝七『憲兵三十一年』 ) 。

「柳川兵団の進撃が速いのは、将兵のあいだに『掠奪・強姦勝手放題』
という暗黙の諒解があるからだ」と、同盟通信上海支杜長の松本重治
は同僚から聞いた。

斎藤は、中国側が日本軍に向けて流したラジオ放送の言葉を、手記
に書きとめている。
「父母にはぐれた数千の孤児、わが子の死体を踏み越えて逃げる年と
った父や母達。家は焼け、喰ふに物なき哀れな民の、あの悲しみの洪
水が果して、みなさまの心にどの様に映ってゐるでせうか」

1937年12月13日の夜明け前、日本軍が南京城東側の中山門を占領し
た。

明け方、朝日新聞記者斎藤一は、南京城の南側、中華門西方50メー
トルの城壁を爆破してつくられた突撃路をよじ登って城壁の上に立っ
た。
「敵の死体が城壁の外側に何百、何千、数へ切れぬ程列をなしてゴロ
ゴロと転がつて」いた (38年1月5日付朝日北海樺太版など ) 。

城内に入った日本軍は「残敵掃討」にあたった。歩兵第20連隊の牧
原信夫上等兵は、新聞記者が「続々嬉しそうに自動車或は徒歩にて入
城」するのを見た ( 『南京戦史資料集1』 ) 。

教科書検定、「強制」の記述認めず

沖縄戦「集団自決」の教科書検定問題で、先の教科書検定審議会日本
史小委員会の指針を受けて、文科省の教科書調査官と出版社が、日本
軍による「強制」の文言使用を避ける形で調整しているようです。出
版社はこの方針に従う見通しで、軍の強制を表す表現が大幅に後退す
る見通しとなりました。

「『強制』外しで調整 『集団自決』検定」(琉球新報、22日)

こういう動きに対し、地元沖縄では反発が高まり、来週代表が上京し、
記述復活について改めて政府などに要請するとのことです。

教科書問題で記述回復を政府に要請へ」(日刊スポーツ、21日)

従軍記者が見聞した南京事件(1)

朝日新聞は同紙自身の戦争責任を明らかにするため、過去の戦争をど
のように報道したかを検証する「新聞と戦争」シリーズを夕刊で連載
中です。現在は「南京」という章に入っていますが、その中で南京事
件に直接関わる部分を抜粋して、以下数回に分け引用します。

-------------------------------------------------------------
追撃戦は一気に進んだ。食糧などの補給が追いつかず、前線の兵士
はそのほとんどを「徴発」でまかなった。事実上の略奪だった。

元同盟記者の前田雄二によると、徴発はこうして行われた ( 著書
『戦争の流れの中に』 ) 。

「兵隊はまず ( めぼしい家の ) 扉を破ると、居室の抽出(ひきだ)
しをひっくり返す。ついで衣裳ダンスや収納櫃をこじあける。そして
台所で食糧を探す」
「住民居住地域に行って、徴発した支那服や靴などを、米や高梁酒、
そして砂糖などと交換した。鶏や卵が手に入れば大成功だった」

陸軍刑法は「戦地または帝国軍の占領地において住民の財物を掠奪
したる者は一年以上の有期懲役に処す」と定めていたが、戦場では日
常的な行為だった。

「 ( 無錫の ) 城内外を視察す。種々雑多な兵隊でゴッタ返し徴発物
件を洋車 ( 人力車 ) につんで陸続と行くあたりまるで百鬼昼行であ
る」 ( 佐々木到一『ある軍人の自伝』 )

そうして得た食糧を、記者たちも食べた。歩兵第36連隊乙副官、菅
原茂俊の11月26日の日記。「徴発隊を出す。タ食に豚をスキ焼にし、
記者一同と会食す」 ( 『同資料集皿』 )

朝日記者の斎藤一は、上海西方にある湖「太湖」の南側を通って南
京に向かった。

「競馬の様に各部隊が毎日抜きつ抜かれつしてゐた」 (38年1月27日
付朝日群馬版 )

斎藤が書き残した手記は、兵士たちの「娘狩り」に触れている。

「斎藤さん、話さうか」
中国戦線を取材する朝日新聞記者斎藤一に、兵隊が話しかけた。

「俺達旅団通信は七人、部隊に遅れたのを幸ひ、交代で昼問娘狩りに
出てな」
「畑や野ツ原を追ひかけまわして、まるで鶏をつかまえる時の様に骨
を折らせやがつて……」
日本兵の行状の一端を斎藤は手記につづった。

新規リンクのお知らせ

「戦争を語り継ごう -リンク集-」に新しく次の2サイトを追加し
ましたので、ご覧ください。

荒鷲の賦
1944年5月予科練に入隊、11月卒業するまでの訓練の日々の日誌

「原爆はこうしてつくられ落とされた-悲運の長崎と被爆した学友た
ち-

旧制中学から旧制高校にかけての軍国少年時代の体験記。長崎へ学徒
動員中、たまたま帰省していたので原爆の難を逃れたが、被爆した多
くの学友の体験を紹介

元兵士が語る「南京戦」の真実

02年8月15日にテレビ朝日の「ニュース・ステーション」で、「南京
戦元兵士102人の証言」という本の内容が紹介されました。番組では、
南京戦に従軍した元兵士たちが虐殺、強姦などの生々しい体験を語り、
当時大きな反響を呼びました。

次のサイトには、その番組の一部始終が紹介されています。録画も見
られます。当時この番組を観られなかった方は、ぜひご覧ください。

元兵士が語る『南京戦』の真実


「つくる会」が教科書検定問題で不承認意見書

沖縄戦「集団自決」に関する教科書検定問題で、「新しい教科書をつ
くる会」(藤岡信勝会長)は昨日、文部科学省を訪れ、民間教科書会
社から申請される訂正の「不承認」を求める意見書を提出しました。

同会が意見書として文科省に申し入れるのは今回で4回目で、いかに
藤岡信勝氏がこの問題で危機感を抱いているかがうかがい知れます。

つくる会 Web ニュース:沖縄戦『集団自決』検定問題 文科省は
政治介入を排し、訂正『不承認』で早期決着を! つくる会が文科大
臣に4度目の申し入れ


南京事件に関する北京週報記事

中国「北京週報」日本語版に、同誌記者が南京大虐殺記念館の新館、
当時の日本兵の証言、南京大虐殺の生存者や歴史の専門家、日本の
青年などを取材をしたレポート記事が掲載されています。

歴史をともに認識し、平和な未来を大切にしよう

なおこの記事の中で、当時の広田弘毅首相が1938年1月17日、米国の
日本大使館に発信した機密電報のことが書かれていますが、昨年その
史料を米国立公文書館で発見した南京大学の張生教授のインタビュー
記事も別稿であります。

史料集は歴史研究の基礎

新たな戦争遺留品(F073)

先日に引き続き、アメリカ・キーストン市の女性から戦争遺留品の日
章旗を返還したいとの申し出がありました。戦争中海兵隊員で沖縄の
攻略に参加した義父(故人)が持ち帰ったもののようです。

その旗には多くの人の寄せ書きがありますが、残念ながら持ち主の氏
名はわかりません。ただ「熊商三々会」との書き込みがありますので、
県立熊本商業学校(現:熊本県立熊本商業高等学校)の同窓生の方の
物であった可能性が高いと思われます。33回卒業としますと、昭和15
年前後と考えられますので、年代的にも符合します。

そこで昨日夕刻熊本商業高校の校長先生宛てに調査依頼のメールを送
ったところ、今朝すぐ同校の卒業生と思われるとの返事をいただきま
した。今までこれほど早い例はありませんので、驚くとともに、同校
の積極的なご協力に感激しています。

この日章旗については拙サイト「旧日本軍人の遺留品」の「日章旗
(F051~ ) 」のページにに、F073として掲載しましたので、ご覧く
ださい。また熊本商業にご関係のある方がおられましたら、ご協力を
お願いします。

「軍命あった」 沖縄戦専門家の林教授が講演

一昨16日沖縄県平和祈念資料館で、関東学院大学の林博史教授が「沖
縄戦と民衆-『集団自決(強制集団死)』をどうみるか」のテーマで
講演し、集団自決が行われたのは「軍命があり、日本軍によって住民
に恐怖感を植え付けた」と、多くの事例を挙げて説明しました。

今日のインターネット新聞 JanJan は、そのレポートを掲載していま
す。

「『軍命あった』 沖縄戦専門家の林教授が講演

教科書検定審見解に対する軍命否定派の見解

昨日の産経ニュースは、沖縄集団自決問題に関する教科書検定審見解
について、<識者からは「軍の直接的な命令は確認できていない」と
検定意見堅持への評価が相次ぐ一方、軍強制のニュアンスを否定して
いないことなどを疑問視している。>と、軍命否定派の見解を紹介し
ています。

教科書検定審見解 軍命断定せずに評価も 沖縄集団自決

< だが、藤岡信勝拓殖大教授は「『生きて虜囚(りょしゅう)の辱
(はずかしめ)を受けず』といった戦陣訓や手榴(しゅりゅう)弾の
配布を書かせることで、軍強制のイメージが出て、事実上認めたこと
になる」と憤る。>

戦陣訓教育や手榴弾配布などから軍の強制があったということは紛れ
もない事実で、そのことは紙切れの命令書があったかなかったかとい
うことよりずっと重要ではないかと、当時の軍国主義教育を受けた私
は思います。

大阪・大正区で「集団自決」聞き取り調査

<沖縄出身者が多く暮らす大阪市大正区で、沖縄戦での「集団自決」
など戦争体験の証言集めに住民らが取り組んでいる。>と今日に朝日
新聞大阪本社版夕刊が伝えています。

沖縄出身者多い大阪・大正区で『集団自決』聞き取り調査
< 「当時、『日本人として恥ずかしくない態度を取りなさい』と命
令がありました。監視兵が言ったのを父が聞いたのです。それは死ね
という意味でした」(調査記録から)
女性には自決を直接命じられた記憶はないが、兵士たちが玉砕を厳
命されていることは知っていた。「いざというときは自決」。そんな
空気が島を覆っていた。 >

南京事件についての産経社説

読売、朝日に続いて、今日は産経新聞の社説(主張)が南京事件につ
いて書いています。

南京事件70年 誤った史実を正す発信を
< 国際社会で誤った史実に何も反論しないと、それが“真実”とし
て定着してしまいかねない。日本人がいわれなき非難を受けないため
に、外務省は日本の実証的な研究成果を世界に向けて積極的に発信す
べきである。>

新たな戦争遺留品(F072)

また新しく、あるアメリカ人から、戦争遺留品の日章旗を返還したい
との申し出がありました。元の持ち主の氏名は、「小山寅與」です。

友人の叔父から遺族へ返すと約束して預かったものだそうですが、そ
の叔父は1944年6月15日、第2海兵師団の一員としてサイパン島に上陸。
その数日後の戦闘で日本軍の壕を攻略した時、一人の日本兵が小銃で
自決しているのを発見。この日章旗は、彼が脱いだ鉄兜の中に折りた
たんで入れていたものとのことです。

拙サイト「旧日本軍人の遺留品」の「日章旗 (F051~ ) 」のページ
にに、F072として掲載しましたので、何か情報がありましたら、ぜ
ひお知らせください。

戦争遺留品の返還、また2件

戦後62年、太平洋戦争で戦った連合軍兵士たちも高齢化する中で、戦
場から持ち帰った旧日本兵士の遺留品を返還したいというケースが多
くなっていますが、今日の新聞にもまた2件、戦争遺留品が返還され
たという記事が掲載されています。

日章旗を返還 米のペリーさん 『運命的』遺族と喜び共有」(読売
滋賀版)

雑記帳:終戦直後にフィリピンの捕虜収容所で…」(毎日)

母校の滋賀県立大津商業高校に返還された日章旗は、同校の史料館に
展示されるとのことですが、これは私どもががお手伝いしてやはり母
校の愛知県立新城高校へ返還された日章旗と同じです。どちらも若い世
代に戦争を語り継ぐために役立ってほしいと願ってい
ます。

戦争遺留品に関する在米日系紙記事

ちょっと古いニュースですが、去る8月22日付のアメリカ・シアトル
市の日系新聞「北米報知」に戦争遺留品返還に関する記事が掲載され、
私どもの活動も紹介されました。

記事のPDFファイルを下記にアップしましたので、ご覧いただけれ
ば幸いです。

http://knishiha.web.fc2.com/iryuhin/hokubeihochi070822.pdf

今日の新聞社説から

今日の朝日新聞の社説は、11日の読売に続き、南京事件を採りあげ
ています。また読売新聞の社説は、昨日ご紹介しました欧州議会での
「慰安婦決議」について論じています。

南京事件70年―数字の争いを超えたい」(朝日)
< 数字の探求は専門家に任せるべきだ。実は中国の学者の間にも、
一つの数字にこだわらず、より実証的な研究を求める声がある。冷静
な学術研究を通じて、いずれ数字は変わっていくのではないか。
 両国の政治にとっていま大事なのは、この事件を日中間の障害とせ
ず、和解に向けて手立てを講じていくことだ。>

慰安婦決議 欧州での連鎖反応が心配だ」(読売)
< 日本が繰り返し批判される背景には、1993年の河野官房長官
談話がある。日本の官憲が組織的、強制的に女性を慰安婦にしたかの
ような記述があった。
そうした事実を裏づける資料はなく、「強制連行」を認めるよう迫
る韓国側の圧力をかわすためだったことを、石原信雄元官房副長官ら
が証言している。
国際社会の誤解の根元である河野談話を見直していくことも必要だ
ろう。>

このように連鎖反応が起こっている原因は、安倍前首相が「強制連行」
を否定するかのような発言をしたからです。昨日のNHKニュースも、
この決議について次のように伝えていました。

<日本政府の対応について、「過去には日本政府高官が従軍慰安婦問
題で謝罪の声明を出したにもかかわらず、最近になってこうした声明
を撤回したり、弱めたりしようとする発言があることは遺憾だ」とし
て批判しています。>

今また「河野談話」を見直すなどしたら、連鎖反応を止めるどころか、
火に油を注ぐようなことになるでしょう。

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プロフィール

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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