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捕虜もいろいろ

アメリカで「捕虜 日米の対話」の活動にご尽力されているTさんと、
シベリア抑留の体験者として補償問題に取り組んでおられるIさんか
ら、たまたま相次いでメールをいただきました。

お二人がかねがね訴えておられるのは、日本の鉱山などにおける連合
国軍捕虜およびシベリアに強制連行された日本軍捕虜のことです。い
ずれも苛酷な環境の中で、厳しい労働を強制された点が共通しています。

第二次大戦中、捕虜がこのように虐待された例が他にあったでしょう
か? 大日本帝国とソ連、この二つの国に共通しているのは、軍国主
義やスターリニズムという全体主義思想で、自国民の人権さえ厳しく
弾圧されていたということです。

同じ社会主義国でも、中国(共産政権)が日本軍捕虜を人道的に扱っ
たことは有名です。あのアウシュビッツで悪名高いナチスドイツでも、
かつて流行った「捕虜収容所」ものの映画で見る限り、連合国軍捕虜
の収容所では、大掛かりな脱走を実行するほどの自由はあったようで
す。

アメリカ軍の捕虜になった皇軍兵士は、てっきり殺されると思ってい
たのに、その厚遇ぶりに感激して、軍の機密事項までもぺらぺらとし
べってしまったということも何かで読んだことがあります。

今朝の日経新聞のコラム「春秋」は次のように書いています。

< ロシア兵は降伏するとき両手を上げて「マツヤマ」と叫んだそう
だ。日露戦争の当時、四国の松山にロシア兵捕虜収容所があり、人口
の1割を超える4000人が町にあふれた。散歩はもちろん観劇や買い物、
道後温泉の入浴も自由だった。

戦争とはいえ、のどかな時代だったのだろう。「敵は喜んで降参し
た。ポカポカ暖かくて楽しい松山の暮らしを伝え聞いていたからぞな」。
そう自慢げに語る伊予っ子の口調もまた温かい。市内のロシア人墓地
には、遠い祖国を望めるようにと98の墓碑が北向きに並ぶ。いつも地
元の中学生が掃き清めている。>

日露戦争の時の捕虜収容所の様子は、最近の映画「バルトの楽園」で
も有名になりましたが、当時の日本も日本人も広い度量があり、まだ
「美しい日本」でした。いつから狭量な「醜い日本」になったのでし
ょう? 自国のみ善とする狭量なナショナリズムでは、「美しい日本」
は作れないでしょう。

戦争中、側近として昭和天皇に仕えた徳川義親元侍従長は、自著の中
で次のように書いています。

<(陛下は)折に触れて「日露戦争の時の軍と違う」ということはお
っしゃっていました。明治天皇のご事蹟をよく知っておられましたか
ら。>
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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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