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本多立太郎さん、最後の「出前噺」

一昨日ご紹介しました92歳の戦争語り部・本多立太郎さんが、昨日箕
面市で最後の「出前噺」を披露されたと、毎日新聞大阪版が伝えてい
ます。

< 本多さんは「戦争世代がいなくなっても、自分たちの信念で平和
憲法を守るんだとの思いを持ち続けてほしい」と呼び掛けた。最後に
27日に92歳になる本多さんに同市立萱野東小3年の中村のりこさ
ん(8)から花束が贈られた。

 中村さんは「怖いお話もあったけど、初めて知ったことばかりでし
た。平和って大切なんだな、と思います」と話した。>

本多立太郎さん:戦争とは別れと死 箕面で最後の『出前噺』」 


本多さんは、昨年5月、日中戦争が勃発した盧溝橋を訪れ、跪いて謝
罪されたそうです。

http://news.sina.com.cn/c/2005-05-19/19066691361.shtml

こういう写真を見ると、たちまちネットで「反日」という心ない批判
の声が上がります。本多さんも、「私の講演には右翼分子は来られな
い。しかし、非常に多くのFAXや手紙で『売国奴』と罵られる」と言っ
ておられます。批判するのは自由ですが、それなら堂々と講演会に出
てすればいいのです。少なくとも実名で批判すべきです。私がネット
で見る限り、こういう情けない批判はすべて匿名です。
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ニニ六事件

今日はニニ六事件からちょうど70年になります。しかし新聞では余り
記事になっておらず、僅かに日経と北海道の2紙がコラムで採りあげ
ているだけです。

日経・春秋
http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20060225MS3M2500D25022006.html

北海道・卓上四季
http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?j=0033

インターネットを検索してみますと、かつてNHKでニニ六事件をテ
ーマとする番組を制作した中田整一氏の、「二二六事件の謎を追う」
という興味深い講演録がありました。その最後の部分だけ引用します。

< 話が飛びますが、いま9・11テロを契機にアメリカは国家も国
民も急激に変化しています。それに連動して、日本も変わろうとして
います。一つの事件が起こることで時代が急激に変わっていくという
ことです。満州事変で小さな流れがだんだん大きくなって、二二六事
件でぐっと急旋回した。こういう日本の歴史的事実から、私は今の現
実をどう見つめたらいいのかという問題があると思います。

私は当時の軍人達にもたくさん会いました。そのなかで、日中戦争
から太平洋戦争を指導していった軍務局長や作戦部長といった中枢の
人達に、防衛庁の中で一堂に集まってもらい、大変印象深い話に出会
いました。陸海軍のこういう人達に、どうして日本は戦争に深入りし
ていったのかを徹底的に議論してもらったのです。陸海軍は、当時戦
後30年も経っていたのに相変わらず大喧嘩をするという有様で、大
変興味深い議論になりました。その中で、日中戦争時の作戦課長の印
象深い話がありました。あの時の自分の敵は日本の国民だったと言う
のです。国民が戦争をやめさせてくれなかったと言いました。それに
対して、陸軍の中から、お前は責任逃れをするのかと喰ってかかる人
もいましたし、海軍はそれを冷ややかに見ていたりしました。彼の発
言を聞いて資料を読み返してみると、当時の国民は確かに好戦的にな
っていた。日中戦争から足が抜けなくなって、軍に煽られマスコミが
煽って国民はかなり好戦的になって行く、これも歴史の真実だろうと
思います。

 こういうことを思い返して、今の時代の動きをみてみると世の中
は急速に変わりつつあります。過去に戒厳令が発令されて日本がや
ってきたことが、今はすっかり忘れ去られようとしている。過去の
歴史から今の自分たちの足もと、現実を見つめ直す必要があるので
はないか。そういう思いで、きょうは貴重な時間を頂いて、お話を
させていただきました。>

興味がある方は、全文をお読みください。
http://homepage1.nifty.com/dousou/meeting/2003/lecture.htm

国民学校一年生の会

朝日新聞夕刊の特集シリーズ「ニッポン人脈記」は、今「市民と反戦」
というテーマで連載中ですが、今日は「国民学校一年生の会」のこと
が紹介されています。

http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/kirinuki/asahi060225.htm

「国民学校一年生の会」とは、かつてこのMLでも話題になったこと
がありますが、私の1学年後輩にあたる、1941年に小学校が国民学校
に変わったときに入学された人たちの会です。1年生から6年生までず
っと国民学校で勉強した唯一の学年です。

軍国主義教育の申し子ともいうべきこの学年の人たちは、子や孫に二
度とあのような経験をさせたくないと、作家の井上ひさしさんらが呼
びかけて、1999年にこの会を結成されたのです。

メンバーの一人である詩人の滝いく子さんは、 結成の時次のような
「わたしたちは忘れない」という呼びかけの詩を書かれました。

わたしたちは忘れない
わたしたちは知らなかった
胸ときめかし 一年生にあがるとき
小学校が「国民学校」に名を変えて
頬あかく瞳きよき子らを呑み込んだとは
「少国民」教育は年ごとにきつく締まり
いつしか歌っていた「大君の辺にこそ死なめ」

そして見捨てられ 死んでいった
たくさんの兄たちよ 友たちよ
わたしたちは光の中に生まれ出た
すべての子供らに門を開いた新制中学校で
新憲法は 戦争放棄と国民主権をうたい
人々の胸に新しい血をわきたたせた
生き残った身体で抱きしめた自由と平等は
希望の力となって人々を揺り起こした

わたしたちは二つの道を歩み
そして選んだ 一つの道 この道をゆく
平和と民主主義のこの道を
わたしたちは忘れない はじめての一歩が
「国民学校」一年生だったことを
はじめての二つの道の一番前を歩んだことを
わたしたちは 子孫にふたたび踏ませない
血と叫び 破壊と殺戮 深き闇の道を

戦場噺1125回 91歳の戦争語り部

今日の朝日新聞夕刊(大阪本社版)に、日中戦争やシベリア抑留の体
験を「戦争出前噺」として、1125回も語り続けてきた91歳の元兵士が
紹介されています。

< 後ろ手に縛られた男は、真っ青な顔をしていた。一瞬、にやりと
笑った気がした。銃剣をひと突きされると、ぐったりと横倒しになり、
川に落ちた――。

 本多さんは月に一度は「あっ」と叫んで夢から覚める。中国で上官
の命令で捕虜の中国人を殺した記憶だ。「当時、上官の命令に抵抗す
るのは大変な罪でした」という。>

<「出前」の最後にいつも、36年の二・二六事件で見た光景を語って
きた。事件を聞いて、当時臨時雇いで働いていた朝日新聞社へ行くと、
機関銃を構えた兵士が玄関へ向けて狙いを定めていた。群衆はただ息
を潜めてじっと眺めていた。すでに何も言えない時代になっていた。

 「私たちは同じ道を歩かされてはいけない。今ならまだ間に合う。
まだ声を上げられる」。本多さんは26日も、そう語りかけるつもり
だ。>

明日はその二・二六事件が起こってから、ちょうど70年になります。

全文は:
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200602250043.html

戦争遺留品(フィリピン・パナイ島)

パナイ島からの写真


フィリピンのパナイ島からアメリカ兵が持ち帰った旧日本兵士の遺留
品の元の持ち主探しの依頼が来ました。日章旗1点と写真数点です。

日章旗には「徳本君」という書き込みがありますので、持ち主の姓は
「徳本」と推察されるのですが、その他手がかりになるようなことは
書かれていません。またこれらの遺留品はすべて同一人物が持ってい
たのか、複数の人が持っていたのかも定かではありません。

旧日本軍人の遺留品」に「日章旗」F048、「写真」P018 として
掲載していますので、何か情報がありましたらお寄せください。

戦争総括 小泉後は

ご承知のように、今国会では、あの戦争は何だったのか、A級戦犯と
は、など歴史観を巡っての質疑が行われています。答えているのは、
主として小泉首相の後継と目されている有力閣僚ですが、その質疑を
まとめ、戦争を体験した議員がが少なくなった国会で、いかに実体験
としての戦争体験を継承させていくかが課題とする記事が、今日の朝
日新聞に掲載されています。

お読みになっていない方のために、切抜きを下記にアップしました。

http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/kirinuki/asahi060222.htm

遊就館と昭和館

少し古くなりましたが、15日の毎日新聞の「サンデー時評」に「『遊
就館』と『昭和館』、ハシゴのすすめ」という記事が掲載されていま
す。03年の戦争を語り継ごうML・東京オフ会では、この二つを見学
しましたが、筆者の岩見隆夫氏も同じく“ハシゴ”見学を奨めていま
す。

<ひとしきり、朝日新聞の若宮啓文論説主幹と読売新聞の渡辺恒雄主
筆の対談が、マスコミ界の内外で話題をさらった。
(中略)
 対談を掲載した朝日新聞発行の月刊誌『論座』二月号が飛ぶように売
れたという。朝・読が一致したとなれば、新聞界の多数派の意思が示さ
れたことになり、世論形成にも響く。>

< それはともかく、渡辺さんが批判する〈遊就館〉である。靖国神
社は創建百三十年記念事業として、四年前に大改修し、いわゆる皇国
史観を一段と露出させた。日米開戦は日本が自存自衛のために立ち上
がった、という史観だ。>

<最近は、米国も〈yushukan〉の中身に強い関心をみせ、米高官の一人
は、
「靖国参拝によって、日本の首相がyushukanの考え方を肯定していると
受け取られないか」
と述べたという。中韓だけでなく、米の目もここに注がれている>

<〈遊就館〉を訪れる方は、ぜひとも〈昭和館〉にも足をのばしてい
ただきたい。ハシゴをおすすめする。靖国問題を深く考えるよすがに
なると思うからだ。>

全文は:
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/iwami/sunday/news/20060215org00m010031000c.html

仏ルモンド紙が靖国神社ルポ

10日付のフランスの有力紙ルモンドが、「毒を塗られた日本の記憶」
と題する靖国神社ルポを掲載し、戦前の「超国家主義のイデオロギー
的支柱」であった同神社が現在も「政治的なメッセージを伝えている」
と述べたと、11日のしんぶん赤旗が伝えています。また併せて、8日
付の米ボストン・グローブ紙の社説も紹介しています。

<記事は、同神社の戦争博物館、遊就館にある機関車と零式戦闘機に
注目。機関車が走ったのは現在のタイとミャンマーの国境に敷かれた
鉄道であり、「この鉄道建設は困難を極めた」との説明文があるもの
の、建設工事でタイ人や中国人ら六万人、戦争捕虜一万五千人が犠牲
にされたことにまったく触れていないと指摘。また当時、最優秀機と
された零式戦闘機が一九四〇年に重慶爆撃に使われたことでも「民間
人の死者二万人を出したことが述べられていない」とし、「一九三七
年の南京『事変』の扱いと同じ省略だ」と書いています。>

仏・米紙が「靖国」批判 首相参拝は軍国主義免罪

NYタイムズの社説 麻生外相を批判(続)

麻生外相を批判した13日付のNYタイムズの社説については、今日の
産経新聞と昨日のしんぶん赤旗も採りあげています。

産経は、この社説は中韓の主張をうのみにしたものとし、日本政府は
ニューヨークの総領事館を通じた反論を準備していると報じています。
また併せて、先に朝日の社説で紹介された8日付の米ボストン・グロ
ーブ紙の社説も批判しています。

米紙『麻生たたき』社説 NYタイムズとボストン・グローブ
(産経、16日)

麻生外相発言は『扇動的』 NYタイムズが外交感覚批判」(しん
ぶん赤旗、15日)

Re: NYタイムズの社説 麻生外相を批判

このニュースは、毎日と朝日以外の新聞には掲載されていないようで
すが、昨日のTBS系列およびテレビ朝日系列のテレビ・ニュースで
も報道されています。

下記でその録画が見られます。

NYタイムズ、社説で麻生外相を批判」(TBS)

「『麻生大臣の歴史センス奇妙』NYタイムズが社説批判」(テレビ朝
日)

田畑敏雄さんの戦場スケッチ インパール作戦編

「戦争を語り継ごう -リンク集-」に、次のサイトを掲載
しましたのでご覧ください。

田畑敏雄さんの戦場スケッチ インパール作戦編インパール作戦に従軍した元兵士が描いた戦場のスケッチ

麻生外相とビッテル神父

先にご紹介しました昨日の衆院予算委員会で、靖国参拝の答弁に関し、
麻生外相はやおらポケットから、よく持ち歩いているという資料を取
り出し、靖国神社の焼却に反対したビッテル神父の文書を読み上げま
した。

この文書は、靖国神社のウェブサイトに掲載されており、靖国神社信
奉者が金科玉条としている言葉ですが、以前ご紹介しましたように、
靖国神社のウェブサイトではその一部が「中略」として省略されてお
り、インターネットで引用されている例でもほとんどやはりその部分
が省略されています。

今月の社頭掲示 靖国神社を守った神父」(靖国神社)

ところが麻生外相は、その省略された部分も読み上げました。ただし、
「排すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない」の部分
だけで、前段の「靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根
元であるというのなら、」
は省略していましたが…。

しかし靖国神社は今なお「国家神道の中枢で、誤った国家主義の根元」
という立場を変えておらず、国家神道を排していないことは、誰の目
にも明らかです。“神道”を“しんどう”と読む麻生氏は、国家神道
のことも、靖国神社の本質もよく理解していず、幼い頃祖父に手を引
かれて参ったという頃とあまり変わらない靖国神社観の持ち主のよう
に感じました。

麻生、安倍両氏の戦争観(衆院予算委より)

昨日の衆院予算委員会で、民主党の岡田克也氏が「ポスト小泉」候補
といわれる麻生外相と安倍官房長官に先の戦争に対する考え方を質問
しました。

まず「先の大戦は自存自衛のための戦争だったか」との質問に対し、
両氏とも「村山談話」が政府の立場と答えただけで、明確な見解は避
けました。

次に東京裁判とA級戦犯に関する質問に対しては、両氏とも政府とし
ては東京裁判は受諾したが、戦犯は連合国側の立場に立てば犯罪人で
あるが、国内法では犯罪人ではないと答弁しました。

それでは戦争責任は誰にあるかとの質問に対して、麻生氏は特定でき
ない、安倍氏は連合国との関係では戦犯が責任をとったとしながらも、
両氏とも政府として責任者を明確にすることはない、アカデミックな
議論や国民の判断に待ちたいと述べました。

産経、毎日の両紙が記事にしています。

A級戦犯 『国内法で犯罪人ではない』 民主『口頭試問』 安倍
・麻生氏見解
」(産経)

衆院予算委員会 『ポスト小泉』候補が質問攻めに」(毎日)

詳しくは、次の「衆議院TV」でご覧ください。「発言者・岡田克也(
民主党・無所属クラブ)」の部分です。
http://www.shugiintv.go.jp/jp/video_lib3.cfm?deli_id=29190&media_type=wn

NYタイムズの社説 麻生外相を批判

昨日の米ニューヨーク・タイムズは、「日本の攻撃的な外相」という
タイトルで、麻生外相の最近の発言に対し、「扇動的な発言からは誠
実さも賢明さもうかがえない」と批判する社説を掲載しました。

http://www.nytimes.com/2006/02/13/opinion/13mon3.html

これについて、毎日新聞電子版は、次のように伝えています。

麻生外相発言:「誠実さも賢明さもうかがえぬ」米紙批判

この中で毎日新聞は次のように、この論評は中国寄りと書いています。

< ただし、社説は、南京事件の市民の犠牲者を中国側が主張してい
る「数十万人」としたり、中国潜水艦の領海侵犯事件などがありなが
ら「中国が最近、日本に脅威を与えたような記録はない」と指摘する
など、中国寄りの論評となっている。>

しかし原文では、南京事件の犠牲者の数を"hundreds of thousands"
と書いており、これは何も中国側だけの数字ではないと思います。ま
た英文版では、この犠牲者数のことにはまったく触れず、中国潜水艦
の領海侵犯についても、中国“船舶”(vessels)と書いて、表現を
和らげており、「中国よりの論評」との記述もありません。

なお麻生外相は今日の記者会見で、このNYタイムズの社説について、
「批判は自由だ」と述べたそうです。

麻生外相:「批判は自由だ」 米紙社説に

NYタイムズ、靖国参拝批判などナベツネ氏紹介記事

先ほどYOMIURI ONLINE(読売新聞)は次のように報じました。

<11日付の米紙ニューヨーク・タイムズは読売新聞の渡辺恒雄グル
ープ本社会長・主筆を紹介する記事を掲載した。記事は、ニューヨー
ク・タイムズ紙東京特派員による2時間のインタビューなどを基にま
とめられている。

 同紙はこの中で、渡辺主筆が、太平洋戦争に突き進んだ日本の指導
者らの責任を日本が自ら検証する必要性を唱えていることや、小泉首
相の靖国神社参拝を批判していることを紹介。その背景には、戦争を
知らない世代の中で高まるナショナリズムやアジアの近隣諸国との関
係悪化に対する懸念があるとの見方を示した。>

ニューヨーク・タイムズのこの記事は、次のサイトで読むことができ
ます。

Shadow Shogun Steps Into Light, to Change Japan

__________________________

西羽 潔  Kiyoshi Nishiha

強いられた死 世代超えて

朝日新聞の夕刊で、「ニッポン人脈記・沖縄をつむぐ」を連載中です
が、今夜は沖縄戦の“語り継ぎ部”の活躍ぶりを伝えています。

お読みになっていない方のために、下記に記事の切抜きをアップしま
したので、ご覧ください。

http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/kirinuki/asahi060213.htm

過去の植民地政策を美化?(麻生外相)

麻生外相は、去る4日の福岡市での講演で、日本が台湾統治時代に実
施した義務教育によって「識字率などが向上したおかげで今、台湾と
いう国は極めて教育水準が高い」などと話し、中国から猛烈な抗議を
受けました。

またこの際台湾を「国」と発言したことについて、6日の記者会見で
は、「(台湾を国と言ったことは)一回もない。台湾を『国』と言っ
たら問題になることぐらい(わかっている)。そんなにバカでもない。
台湾という『地域』の話」と釈明しました。

この発言と03年の創氏改名発言と併せ、<かつて日本は朝鮮半島や台
湾を植民地にした。しかし、それは必ずしも悪いことではなかった。
麻生外相はそう言いたくて仕方がないかのようだ。>と今日の朝日新
聞の社説は書いています。

麻生発言 外交がとても心配だ
<日本政府は植民地支配を反省し、謝罪を表明している。小泉首相も
昨年8月の首相談話で明快に語った。この政府の見解を繰り返し説明
し、理解を得る努力をするのが外相の本来の仕事のはずだ。>


麻生氏は、大日本帝国の植民地政策は善政だったと言いたいのでしょ
う。彼は先に靖国神社の遊就館は戦争を美化するものでないといい、
靖国史観を支持しました。靖国史観では、“大東亜戦争”は欧米の植
民地からアジアを解放するのが目的だったということのようですが、
麻生氏によれば、日本による植民地化は“善”、欧米による植民地化
は“悪”ということになるのでしょうか?

戦争と沢村栄治

戦前のプロ野球で巨人のエースとして活躍し、不世出の大投
手といわれた沢村栄治もまた戦争の犠牲者でした。

「沢村栄治発言集」から、彼の戦争に関する発言のみ抜粋し
ます。

昭和12年(1937)3月:出征を前にしてチームメートに
「優勝してくれ!是非優勝してくれ!」

昭和12年(1937)9月:司令官の質問に対して
「ハッ。投手は重い銃をかついだら肩を悪くすると思います」

昭和12年(1937)9月:司令官の質問に対して
「(希望の兵科は)べつにありません」

昭和13年(1937):『野球界』に寄せた手記
「曹長が『沢村、手りゅう弾一発かましてみい』と言う。無論立っ
てなんか投げられない。だが野球で鍛えた腕には、伏していても投げ
られる自信があった。死を覚悟した自分は、安全装置を取り、靴で発
火させて投げた。すさまじい爆音が敵陣にあがった。手応えがあった
なと思った。曹長が太い声で『手りゅう弾』と叫ぶと、辺りの戦友た
ちから、オレも我もと手りゅう弾を送ってきた。自分はありったけの
手りゅう弾を次から次へと投げた」

昭和13年(1938)4月:戦場で負傷して
「左手でよかった。早く球が投げたい」

昭和13年(1938)5月:負傷に関する新聞への談話
「ひどい山で次々に山が重なっているのを突撃して行きましたが、
二十三日夕刻、自分が名付けた鉢巻山の頂上で猛烈な敵の斉射を受け
ました。避けるところもない岩山で友軍の砲撃に折れて倒れた大木が
あったからそれを楯に軽機を備えて応射していると、その大木を敵の
銃弾がブスリブスリと飛び越えて来るのでこれは危ないと思った瞬間
やられたのです。冷たいというのか熱いと言うのか、得体の知れない
感じでしたが、そのときすぐこれなら働けると思いました。右手なら
これから投げられませんからね(以下略)」

昭和15年(1940):戦地から帰還して
「芝生の上に立って白いボールを握ったときのうれしさは、死線を
乗り越えてきた者だけにしか味わえない…」

昭和15年(1940)6月頃:『野球界』のインタビュー
「兵隊に行く前は十八貫六百だった体重が、帰ってきた当座はなん
と十九貫五百にもなっていたのに、その後一ヶ月ぐらいの間に十七貫
八百になってしまいました。当分休養してればよかったのでしょうが、
グラウンドに出てみると球をにぎってみたくて仕様がありませんし、
投げてみたい気持ちをどうすることも出来ずに練習しました。それで
やせたのでしょう。(中略)だが戦地では野球のことを考える余裕はあ
りませんでした。第一線に専心しなければなりませんでしたから(略)」

昭和15年(1940):『モダン日本』の手記
「戦線から帰還後の最近ではしばしば眠られない夜がある。軍隊に
入る前にはゴロッと横になるとすぐさま熟睡に落ちてしまう他愛のな
いものであったが、殊に近頃のような暑い夜になるとなかなか寝つか
れない。恐らく戦争でいら立った神経がまだ完全に静まっていないせ
いだろうと思う。そこで眠られぬままに過ぎこし方の追憶にふける時、
これは夢ではないかと思うほど過去のさまざまなあたかも規則的に走
馬灯のごとく次から次と浮かんでくる…」

昭和16年(1941)10月:再召集されて家族に
「わしゃ、運が強いから敵のタマは当たらん」

昭和16年(1941)10月:『沢村投手を兵営に訪う』という訪問記に
 「(軍隊と野球の共通点は)何も考える余裕がないのです。体が資
本でプロにいた時よく揉まれて鍛えあげてきたので、それが何よりの
身上ですわ。(兵役を終えたら再び復帰するかどうかは)まだ考えて
いません。今迄はプロ球人として、生業に忠実にやり通してきたので
心残りはありません。この連隊は多くの戦友が戦場に行っていますの
で、帰ってから”プロへ入る”という様なことは…。僕たちもいつ戦
場へ行くか知れない身ですから…」

昭和18年(1943)1月某日:青田昇に対して
「(戦場の体験談の後)日本人もひどいことをやるが、アメ公もえ
げつないことをやるぜ」

昭和18年(1943)某日:多摩川河川敷を走る軍用列車を見て
「今度は俺の番や…!」

昭和18年(1943)と推定:妻優子の「戦争を恨まないの」という質問に
対して
「………(無言)」

昭和18年(1943)11月某日:小鶴誠に対して
「ツボさん、あんた、軍隊行ったかね。(首を横に振った小鶴に)
レはなぁ。もう行かん。絶対に行かん!


昭和19年(1944)4月中旬:青田昇への手紙
「とうとう三度目の旅にでることになった。今度はどこに連れてい
かれるやら皆目わからぬ。聞けば君も旅に出ているそうだから、再び
会えるかどうか。どうか体に気をつけて、がんばってくれ」

軍隊時代の某日:実家への手紙
「時々塹壕の中でアメリカ遠征などを思い出します。皆んな夢のよ
うです…」

昭和19年(1944)11月:妻優子への最後の手紙
「生きて帰れたらいい父親になる」

出典:「八回裏:沢村栄治発言集

1944年12月2日、陸軍伍長として3度目の応召中、乗っていた輸送船が
台湾沖の東シナ海で米潜水艦に撃沈され戦死。享年27。通算63勝22敗。
防御率1.74。

戦争責任に関する安倍官房長官の答弁

安倍官房長官は昨日の衆院予算委員会で、民主党の末松義規議員から
戦争責任についての見解を求められたのに対し、平成7年の「植民地
支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対し
て多大の損害と苦痛を与えました。(略)ここにあらためて痛切な反
省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」との村山
談話が政府の見解としながらも、その責任の主体については、特定す
ることは適切でないと明確な答弁を避けました。

またサンフランシスコ講和条約における東京裁判の受諾についても
「ジャッジメンツを受諾した」と繰り返し、外務省訳の「裁判」では
なく、「ジャッジメンツ」(判決)を受け入れただけで、わが国が主
体的に戦犯を裁いたのではなく、その処刑を引き受けただけだと答弁
しました。

これをニヤニヤ笑って聞いていたので、矛先が麻生外相にも向けられ
ましたが、麻生氏も「政府として戦争責任の主体を明らかにするのは、
適当でない」とかわしました。

これについては、メディアは余り報じていませんが、僅かに産経新聞
のみが採りあげています。

安倍官房長官 戦争責任の特定『適当でない』」

詳しくは、下記のサイトで中継録画をご覧いただけます。発言者一覧
中の「末松義規(民主党・無所属クラブ)」をクリックしてください。

http://www.shugiintv.go.jp/jp/video_lib3.cfm?deli_id=29130&media_type=wn

Re: 横浜事件に関する社説

今日は、産経、沖縄タイムスの2紙が社説で採りあげています。産経
だけが免罪という判決を評価していますが、<言論の自由の大切さと
自白強要の恐ろしさをかみしめると同時に、教訓として今後に生かし
ていきたい。>(産経)という点では、各紙とも一致していると思い
ます。

横浜事件 免訴の意味くみ取りたい」(産経)

「【横浜事件再審】司法の責任なぜ不問に」(沖縄タイムス)

このようにほとんどの主要紙が社説で採りあげていますが、テレビで
の扱いはそれほど大きくないようですね。

あるオーストラリア兵が持ち帰った日章旗

F027

またオーストラリアの人から、日本兵の遺留品である日章旗をご遺族
にお返ししたいから探してほしいとの依頼がありました。取得された
経緯を尋ねますと、おおよそ次のような答えが返ってきました。

<この旗は現在84歳になる父が、1944年、ニューギニアで戦死した日
本兵から取ったものだ。彼はその場所も、その時の日付も覚えている
はずだ。当時オーストラリア兵は、敵の動向を探るため、敵の死体か
ら書類や地図を探すよう教えられていたと思う。そのついでに旗も持
ってきたのであろう。

父は復員後、情緒不安になり、精神病院に10年間も入院した。母も病
気で8年間入院したので、自分たち兄弟は孤児院のような施設に預け
られた。両親は今は元気に暮らしている。>

最近そのお父さんに、「この旗を元の持ち主に返したいが、反対か?」
と訊ねたそうです。するとお父さんは、「反対ではない。そうしてく
れたら自分も嬉しい」と答えられたそうです。

自分の生い立ちから、彼は亡くなった日本兵士のご遺族の気持ちも分
かるのでしょう。何か手がかりはないかと、旗に書かれている文字の
意味を何度も訊ねてきました。しかしそこには、「祈武運長久」と贈
った側の人の署名しかなく、肝心の贈られた兵士の名やその他の手が
かりは何もありません。

「旧日本軍人の遺留品」の「日章旗」のページにF047として掲載し
ていますので、何か手がかりがありましたら、ぜひお知らせください。

旧日本軍人の遺留品

横浜事件に関する社説

ご承知のように、戦時下の最大の言論弾圧事件といわれる「横浜事件」
の再審裁判で、横浜地裁は、被告の無念さへの理解は示しつつも、無
罪ではなく、免訴の判決を言い渡しました。

「横浜事件」とは、1942年から敗戦直前にかけて、雑誌の編集者や新
聞記者ら60人以上が「共産主義を宣伝した」などとして治安維持法違
反容疑で逮捕され、特高警察の激しい拷問で4人が獄死した事件です。

横浜事件(Wikipedia)」

これについて、今日の各紙はこの判決を遺憾とする社説を掲載し、こ
の事件は決して過去の問題ではない、過去の反省を今後にも活かして
いかねばならないと、論じています。

「横浜事件 裁判所は過去に向き合え」(朝日)

横浜事件 60年の重み教訓に生かそう」(毎日)

横浜事件 欲しかった司法の反省」(東京)

横浜事件免訴*心通わない形式的判断」(北海道)

横浜事件/誤った歴史を不問とは」(神戸)

横浜事件免訴判決 判断避けた姿勢に疑念」( 中国)

歴史に埋もれないように 横浜事件」(西日本)

このように戦時中は、良心的な言論を「共産主義」、「アカ」などの
レッテルを貼って弾圧しました。今でこそこのような露骨な弾圧はあ
りませんが、インターネットなどでは「アカ」呼ばわりして、気に食
わない意見を批判する風潮があります。

まあ2チャンネルならともかく、最近ある雑誌で、某国立大学教授
が、「皇室典範に関する『有識者会議』が、女性・女系天皇を容認
したのは、共産党のシナリオどおりだ」「座長の吉川弘之氏(元東
大学長)はゴリゴリの共産党系の天皇制廃止信奉者だ」などの発言
をしているのを知って、まったく唖然としました。

有識者報告書は共産党が30年かけて準備し、狡智に構成?」

靖国参拝問題についての首相答弁

昨日の衆院予算委員会で、小泉首相は民主党・岡田前代表がアジア外
交の行き詰まりを質したのに対し、「私が靖国参拝しなければ首脳会
談に応じるという方がむしろ異常だ。外国の首脳が行くなとか、この
大臣ならいいがあの大臣はだめだとか、そんなことを言っている首脳
は(中国や韓国の)ほかにどこにもいない」と色をなして反論しまし
た。

「『靖国参拝しなければ会談―異常だ』首相、批判に猛反論」(朝日、
8日)

一方、シンガポールのゴー・チョクトン上級相(前首相)は6日の講
演で、「日本の指導者たちは参拝を断念し、戦犯以外の戦死者を悼む
別の方法を考えるべきだ」、「この件に関して、日本は外交的に孤立
している。(中韓以外の)アジア諸国だけでなく、米国でさえ日本の
側に立つことはできない」と指摘しました。シンガポールは、先にリ
ー・シェンロン首相も小泉首相の靖国参拝を批判しています。

シンガポール上級相、靖国参拝の中止求める」(朝日、8日)

このゴー上級相の発言が耳に入ったのではないでしょうが、首相は今
日の衆院予算委員会では、新たな国立戦没者追悼施設の建設について
「今後検討してもいい課題だ」と述べました。

追悼施設は『検討課題』 首相、靖国参拝を制約せず」(中国、8
日)

靖国神社「遊就館」に行ってみた(日刊ゲンダイ)

先に、メディアはもっと遊就館の実態を紹介して、靖国神社の本質を
国民に知らせるべきだ、と書きましたが、1月31日の大衆紙「日刊ゲ
ンダイ」が、「靖国神社『遊就館』に行ってみた」という記事を掲載
しています。

http://gendai.net/?m=view&g=wadai&c=050&no=16564

父の15年戦争

インターネット新聞「JANJAN」に、「父の15年戦争」という
記事が連載されています。先月17日に亡くなった父上から聞いた戦
争体験記です。その体験は、下記の年表にありますように、満蒙開拓
青少年義勇軍から朝鮮戦争まで、実に波乱に富んだものです。

まだ第2回までですが、ご一読ください。

(1)関東軍の特攻

(2)最期の戦争証言

●郷敏樹 兵庫県南あわじ市

○年表
大正13年1月 兵庫県淡路島に生まれる。

昭和13年3月 高等小学校卒業後 満蒙開拓青少年義勇軍に志願。

昭和13年7月 旧満州へ渡る。嫩江(ノンジャン)の訓練所に入所。

昭和15年 満鉄の訓練所に移動、満鉄の警備に当たる。

昭和16年 このころ橋本欽五郎退役大佐(東京裁判で無期禁固刑)が設立
した大日本赤誠会という右翼団体に入る。旧満州、華北で活動。

昭和17年 このころから軍の特務機関の仕事でソ満国境の調査などをす
る。

昭和18年 このころ四平街にあった満州拓殖公社の獣医養成講座で
学ぶ。

昭和20年5月 徴兵検査で甲種合格。関東軍に入隊。訓練で中国人捕
虜の刺殺を命じられ拒否。抗命罪で重営倉に入る。しばらくして、た
またま近辺を視察中の伯父の樋口季一郎陸軍中将(北方軍軍司令官)
の知るところとなり。父の言い分(無抵抗のものを殺すのは武士道に
反する)が認められ釈放。

昭和20年8月 関東軍機動連隊でソ連戦車への特攻攻撃(爆弾を抱いて
自爆攻撃すること)の命令を受ける。終戦後ソ連軍の捕虜となる。

昭和21年1月頃 ソ連軍の貨車でシベリアに移送中仲間3人で脱走、
一人は射殺される。

昭和21年2月頃 旧満州の荒野を彷徨するうち中国人の友人に助けら
れソ連が接収する牡丹江にある関東軍第八病院に収容される。
昭和21年3月頃 ソ連軍から八路軍に引き渡される。

昭和21年夏頃 八路軍が再編成され林彪の第四野戦軍の後勤部(輜重
部隊)に入り国共内戦中、中国各地を転戦する。

昭和25年頃 朝鮮戦争に従軍。

昭和28年8月 上海から高砂丸で帰国 舞鶴入港。

戦争遺留品のニセ物

ニセ遺留品

ドイツの人から、「ビルマ戦線の遺留品である日章旗を、eBay(アメ
リカのネット・オークション)で買った。元の所有者の家族に返した
いので、漢字を読んで、名前を教えてほしい」とのメールが来ました。

写真を見ますと、まったくでたらめの下手糞な漢字(らしいもの)で、
明らかにニセ物です。こんなニセ物まで現れているということはまっ
たく驚きです。

敗れる前に目覚めよ

映画「男たちの大和」で、長島一茂扮する臼淵磐大尉が、特攻出撃を
前に、次のように語るシーンがありました。

「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。
日本は進歩ということを軽んじすぎた。…本当の進歩を忘れていた。
敗れて目覚める、それ以外に日本がどうして救われるか。今目覚めず
していつ救われるか。俺(おれ)たちはその先導になるのだ。まさに
本望じゃないか」

今朝の東京新聞の社説はこの言葉を紹介して、次のように書いていま
す。

< 昭和の初期、革新官僚、革新将校と呼ばれた人たちが日本をしだ
いに泥沼へ引きずり込んでいった、歴史上の事実を思い起こします。

 臼淵大尉のメッセージが「今度こそ敗れる前に目覚めよ」と聞こえま
す。改憲、改革の連呼による集団催眠からさめ、改や革の字に潜む真実
を見極めなければなりません。>

全文は、
http://www.tokyo-np.co.jp/sha/index.shtml


臼淵大尉の言葉については、次の記事もお読みください。

臼淵大尉の願い/新生日本に望み託す(東奥日報、2005年8月4日)

北鮮哀歌

「戦争を語り継ごう -リンク集-」に新しく次のホームページを掲
載しましたので、ご覧ください。

北鮮哀歌
北朝鮮で現地召集されたが、4ヵ月で終戦を迎え除隊。その後妻子と
別れ別れになり、なんとか三十八度線を越えて引き上げてきたが、
妻子は病に斃れ、帰ることはなかった。亡父の手記

元兵士の日章旗をご遺族に返還

日章旗


拙サイト「旧日本軍人の遺留品」に掲載しています因泥幸治郎様が持
っておられました日章旗を、この度茨城県のご遺族にお返しすること
ができました。

この旗は、昨年7月アメリカ・ウエストバージニア州在住の中村みゆ
き様がアンティーク店で見つけられ、連絡されてきました。そこで、
日経新聞の記事を見た長野県飯田市の匿名の方から送っていただいた
寄付金がたまたまありましたので、その一部を使わせていただき、購
入していただいたものです。

因泥幸治郎様は戦後無事に復員されましたが、ご高齢のためすでに亡
くなっておられました。たまたま甥御さんがわれわれのサイトをご覧
になって、ご遺族の所在が判明したのです。ウェブサイトを開いて2
年近くなりますが、ご遺族自身がアクセスされて連絡してこられたケ
ースはこれが初めてです。

好運にも恵まれ、いろいろな方々のご厚意が実って、遺留品が無事ご
遺族にお届けできたことを、たいへん嬉しく思っています。

今後とも遺留品の返還にご協力のほどお願いいたします。

ベトナム戦争遺跡

先月下旬、ベトナムのホーチミン市へ行ってきました。

日本のいわゆる15年戦争が終わって60年が過ぎましたが、同じく15年
も続いたベトナム戦争が終わって30年になります。

日本の戦後30年といえば、ちょうど高度成長がピークに達した頃です。
初めて訪れたベトナムも、1986年のドイモイ(市場開放)以降の経済
の急成長で、早くも“不動産バブル”が懸念されるほどの活気を呈し
ていました。もちろんもうあのベトナム戦争の面影は見られません。

しかしそういう中でも、やはり戦争を忘れずに語り継いでいこうと、戦
争遺跡が保存されています。そしてそれらは、この小国ベトナムが、ど
うして世界一の軍事大国アメリカを打ち破ることができたのかを、物
語っているように思いました。

手製の武器を手にして強力なアメリカに立ち向かうベトナムの人たち
の姿に、政府の残虐な弾圧と、それを支援して不当にも侵入してきた
アメリカの非人道的な攻撃に対する強烈な抵抗のエネルギーが感じら
れました。これぞまことの「郷土を守るため、愛する人を守るため」
の愛国心だと思います。

私たちも本土決戦になれば、「お国のため、天皇陛下のため」に竹や
りを持ってでも戦えと教えられていました。しかし果たしてベトナム
の人々のように、勇敢で、粘り強く戦えたでしょうか? そこにやは
り、頭から叩き込まれた愛国心と、体で感じ取った愛国心の差がある
ように感じました。

僅か3日間という短い滞在でしたので、ほんの垣間見ただけですが、
その一端をホームページにまとめてみました。よろしければご覧くだ
さい。

ベトナム戦争遺跡

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プロフィール

西羽 潔

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集-」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)

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