元日本軍捕虜団体の会長、レスター・テニーさん

今朝の毎日新聞「ひと」欄に、このMLにも知己の方がおれれます、
元日本軍捕虜団体の会長、レスター・テニーさんが紹介されています。
テニーさんは、「バターン 死の行進」の生存者で、その後3年半にわ
たり三井三池鉱山で強制労働を体験した方です。

ひと:レスター・テニーさん 元日本軍捕虜団体の会長


湯川秀樹は原爆研究に関与せず

今日の朝日新聞大阪本社版朝刊は、戦時中京都帝大が行った原子爆弾
の研究に、ノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹博士はほとんど関与し
ていなかったという資料が発見されたと伝えています。

「『ユカワは原爆研究に関与せず』GHQ報告書、米で発見

関連情報―「京大での原爆研究の資料見つかる

「玉音放送」に関する聞き取り(1)

1945年8月15日の「玉音放送」を、どこで、どのようにして聞いたか、そのときの感想などについての聞き取り調査の内容を、Nさんから報告していただきましたので、以下3回に分けてご紹介します。

調査の対象は、Nさんの旧制中学および大学の同窓生で、終戦時中学上級生ないし旧制専門学校生や幼年学校生、少年兵だった人たちです。

(1) 滋賀県の山奥の疎開先で聞いた。
 当時、父は出征し、家族は、滋賀県の山奥へ疎開し、神戸の家には自分1人が住み、学徒動員で神戸の工場へ行っていた。
 8月10日ごろ、空襲で家も工場も焼け、家族が疎開している滋賀県まで逃げた(そのときの悲惨な状況は省略します)。
 玉音放送は、家で家族と聞いたが、雑音が多くてまったく意味不明。しかし、村の人々の話で、負けたのだということがわかった。すでに、それ以前から、敗戦は覚悟していたから、ヤレヤレ、ホッとしたという感じだった。

(2) 家で聞いた。
 学徒動員先は、機械が持ち込まれた中学校の学校工場。
 玉音放送の数日前に、米軍機からビラがまかれ、ポツダム宣言のことを伝えていたから、すでに敗戦を覚悟していた。
 玉音放送の当日は、午後の勤務で、放送は家で聞いた。よく聞き取れなかったが、前後の関係から負けたということは、ほぼわかった。初めはショックを受けたが安堵感も広がっていった。

(3) 家で聞いた。
 学徒動員は、山仕事で重労働だったが、適当にサボっていた。玉音放送は夜のニュースで聞いた。アナウンサーの説明があったので、敗戦がわかった。もし説明がなかったらチンプンカンプンだったと思う。明日は山仕事があるのか、ないのか、そればかり考えていた。玉音放送に関する感想は、ホッとしたということ以外、憶えていない。

(4) 当時、熊本陸軍幼年学校生徒。
 約10日間の予定で、海岸へ遊泳演習に行っていた。
 8月15日の夜、教官から「今夜から灯火管制をしなくてよい」と聞かされた。理由を言われなかったので「へえぇ。本当に大丈夫なの?」とみな半信半疑だった。しかし、戦局がかなり難しい局面を迎えていることは皆感じていたので、戦争が終わったらしいということがわかった途端、緊張の糸が切れ、なんとも言いようのない脱力感に襲われた。
 翌日、鉄橋が爆破されていたので、汽車を、何度も乗り継ぎながら帰校。まもなく大講堂に全生徒が集合を命ぜられ、主任教官より終戦の詔書奉読、わが国が米英支ソ4ケ国と和を結んだ旨聞かされた。自分の身よりも、日本の将来が心配だった。

(5) 当時、高知県の太平洋岸で陸軍少年兵。
 そのころ、高知沖へ米機動部隊接近という情報があったので、毎日、緊張の連続だった。玉音放送については、公式には何も聞かされていなかったが、噂は広がっていた。これはニセの放送だとか、軍の上層部の意見が割れているとか、いろいろな噂が錯綜していた。玉音放送と敗戦を、正式に聞かされたのは、3日後だったと思う。
 いろいろな噂のなかで、すでに覚悟が出来ていたので、敗戦を知っても大きなショックは受けなかった。瀬戸内海を渡って帰宅するとき、海の青さを見て、平和が来たと実感したが、はるかに見える陸上では、どんな惨状が起きているかと思うと、胸が痛んだ。

映画「未決・沖縄戦」

沖縄県名護市にある映画制作の会社が先月、県北部の沖縄戦体験者の
証言をまとめたドキュメンタリー映画「未決・沖縄戦」を制作し、D
VDを発売しました。

北部の証言映画に じんぶん企画『未決・沖縄戦』を制作」(琉球
新報、6月4日)

敵兵を救助せよ!(続)

06年7月に、太平洋戦争中多数の英海軍将兵を救助した旧海軍の駆
逐艦長、工藤俊作の行動を追った「敵兵を救助せよ!」という本が出版
されたとお伝えしましたが、昨年4月このエピソードがテレビで放送され
ました。

その放送のビデをが下記でご覧になれます。
「戦場のラストサムライ 知られざる奇跡 敵兵を救出せよ」
1 of 3 http://www.youtube.com/watch?v=wRcOmYgdp4E
2 of 3 http://www.youtube.com/watch?v=QByCyliKXcI
3 of 3 http://www.youtube.com/watch?v=Q_SbowJUWV4

たいへん感動的な話で、当時の海軍軍人としてはなかなかできないこ
とだと思います。これが日露戦争の頃だったら、帝国海軍の鑑として
広く喧伝され、教科書にも載ったかもしれません。

しかし“鬼畜米英”が叫ばれていた当時は、この美談は国民にはいっ
さい知らされていませんでした。もちろん大元帥陛下の耳に達し、
「武士道の誉れ」といったご嘉賞の言葉があったとも思えません。

工藤艦長はその後他の駆逐艦の艦長に転じましたが、その年の12月に
は海軍施設本部部員、翌年には海軍予備学生採用試験臨時委員を命じ
られ、さらに44年末から体調を崩し、翌年3月15日に待命となったと
のことで、この事件以降出世コースから外れたといえます。

彼は体格が良く柔道の有段者でしたが、性格はおおらかで温和であり、
艦内では鉄拳制裁を厳禁し、部下には分け隔てなく接したとのことで
す。ある意味で、当時の帝国海軍では少数派だったのかもしれません。

こういう“美談”を語り継ぐことは結構なことだと思いますが、同時にこの
ような“美談”が美談でなく、まったく隠蔽される世の中であったこともま
た語り継がねばと思います。

これをただ単に“美談”としてもてはやすのは、同時に当時の帝国海
軍や軍国主義に対する批判ということになるのではないでしょうか?

今年の5月、<この事績をひろく世界に向けて発信する事は、日本国
の国益としても大いなる意義があることと信ずるところであります>
という趣旨で、「故海軍中佐工藤俊作顕彰会」(会長:平沼赳夫)が
発足しました。

「故海軍中佐工藤俊作顕彰に関する趣意書

協賛にはなぜか、工藤元艦長が祀られてもいないのに靖国神社の名が
あります。パール判事と同じく境内に顕彰碑が建つのでしょうか。戦
後もずっと沈黙を守ってきたという工藤は地下でどう思っているので
しょう。


広島の爆心地の町並みをCGで復元

昨日の朝日新聞大阪本社版夕刊は、広島の映像作家が被爆前の爆心地
の町並みを復元するCGを作成した話を紹介しています。これを作成
するのに、約10年の歳月をかけ、165人の人にインタビューしたそう
ですが、実にリアルに復元されているようです。

原爆が奪った爆心地の街、広島の映像作家がCGで復元

このCGについては、下記の記事もご覧ください。
猿楽町 CG 完成 ヒロシマ以前、黒瓦のまち 日々の暮らし」(中
国、(02年8月2日)


新規リンクのお知らせ

「戦争を語り継ごう −リンク集−」に新しく次の2サイトを掲載し
ましたので、ご覧ください。

週報でみる戦時生活
戦時中の政府広報誌「週報」に見られる、1941〜44年の戦時生活

昭和20年 そのとき北野は・・・
戦時下の、旧制大阪府立北野中学校の学校生活を語る。当時の先生と
生徒による座談会


「沖縄戦の全学徒隊」出版

沖縄の「ひめゆり平和祈念資料館」は、沖縄戦に動員された全21学徒
隊の証言や遺書を初めて網羅した資料集「沖縄戦の全学徒隊」をこの
ほど出版しました。

遺書に記す『生』への思い 全21学徒隊の資料集出版」(琉球新
報、8日)

記事の一部です。

< 資料集にはこのほか生存した元学徒隊員の生々しい証言も収録し
ている。元一中の男性は「絶対に捕虜になってはいかん」と言って友
人に手榴(しゅりゅう)弾を渡して死に追いやった日本兵がその後、
米兵に両手を挙げて投降した光景を見ながら「『畜生恥知らず奴が』
とくやしさがこみあげてきた」と記した。

また元沖縄師範鉄血勤皇隊の男性は憲兵が「慰安婦」の朝鮮人女性
4、5人に対し、スパイ容疑をかけられた女性を銃剣で刺すよう命じ、
女性が殺される光景を目撃し「今にして思えば、戦時の狂気であった
としか言いようがない」と記した。>

新たな戦争遺留品(F085)

F085

ブラジルに住む日本人女性が、アメリカ・ミネソタ州在住の娘さんが
近所の老夫人から戦争遺留品である日章旗の返還を頼まれたので協力
してほしいと言ってこられました。

書かれた寄せ書きから、元の持ち主は「井川末松」さんと考えられ、
その他、井川(初太郎、甚五郎、銀次郎、金一)、永井敏、榎易など
多数の署名があります。

この日章旗については拙サイト「旧日本軍人の遺留品」の「日章旗
(F051〜 ) 」のページにに、F085として掲載しましたので、ご覧の
上、何か手がかりになるような情報がありましたら、ぜひお知らせく
ださい。

戦争末期の特高警察資料を発見

戦争末期、大阪府内の警察署が管内の被害や住民の動向を特高警察に
報告していた内部文書が、このほど見つかったと、昨日の朝日新聞大
阪本社版夕刊が報じています。

高槻市で極秘で掘っていた地下壕の建設現場にいた朝鮮人労働者の状
況報告や、軍需工場の稼働率、空襲にさらされた市民の肉声などが含
まれているとのことです。

太平洋戦争末期、うめく大阪 特高警察資料を発見

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プロフィール

Author:西羽 潔

・1933年生まれの軍国少年OB。
・メーリングリスト「戦争を語り継ごうML」主宰。
・ウェブサイト:「戦争を語り継ごう -リンク集−」
・著書:「むかし、みんな軍国少年だった」(共著)